村上春樹「一人称単数」

村上春樹の新作短編小説集「一人称単数」を読む。

以前のブログでも書いたけど、僕と村上春樹との付き合いは長い。もちろん、個人的な面識はないけれど、僕は「風の歌を聴け」をほぼ同時代で読んで以来、一部のエッセイとジャズ評論を除けばほとんどすべての作品を読み続けている。我ながら、付き合いの良い人間だと思う。実は何度か、ここらでもう切り上げようと思ったこともあるけれど(正直、「1Q84」は辛かった!)、その後に出た短編集などをつい手に取ってはまってしまい、結局ブツブツ言いながらも新作が出ればちゃんと買って読む習慣をこの数十年間続けてきている。

余談だけど、おかげで、何人かの女性の友人と気まずい思いをすることにもなった。世の中には、村上春樹の世界に熱狂する女性もいるけれど、どこかに徹底的な違和感を感じて毛嫌いする女性たちも確実に存在するのである。そういう女性と話していて、うっかり村上春樹の話を持ち出すと、巻き添えをくって僕まで人格を否定されてしまう。実際、そういうひどい目に何度かあった。八つ当たり以外の何ものでもないんだけど、こうなると特定の作家との付き合いも考えものである。

話が横道にそれてしまった。「一人称単数」である。久しぶりの短編小説集だけど、作品のほとんどが昔のテーマの焼き直しのように見える。長い付き合いの読者は、「あ、またスワローズと神宮球場の話か」「あれ、この話、中国行きのスローボートに入ってなかったっけ?」「チャーリー・パーカーのネタもどこかでやってるよな。。。」「大学時代の彼女とビートルズって、いくら何でも使いすぎじゃない」「品川猿って面白いけど、これも東京奇譚集で使ったよな」・・・とつい突っ込んでしまう。

でもまあ、昔懐かしい、おなじみの村上ワールドだから、そのまま一気に読み進めてしまう。そして、「なんか、今回もあっさり読み流してしまったけど、ほんと村上春樹って変わらないよね」なんて軽口をたたいて、おもむろにビールでも飲もうかと立ち上がる。とは言え、読み流してしまった後に残る不思議な読後感が少し頭のどこかに引っかかっている。違和感でもあり、既視感でもあり、何かが心の底でアラートを出しているようでもある。

結局、ビールを飲み始めながら、短編集の内容を振り返り、この感覚は何だったんだろうかとつらつら考えはじめる。そして、ふと気づくのである。そう、確かに品川猿は、東京奇譚集に掲載されていた。チャーリー・パーカーの話もビートルズの話も神宮球場の話もすべて過去にどこかで村上春樹が書いた作品なりエッセイなりで取り上げられたものばかりだ。これは一体どう云うことだろう?

こんな風に考え始めると、この新しい短編集には、実はいろいろな仕掛けや謎が仕込まれていることに気づく。そう、村上春樹は、ある種の「リメイク」集としてこの短編集を作っているのだ。それは、もしかしたら、僕みたいにずっとつきあってきた読者にしか分からないものなのかもしれない。でも、この短編集が醸し出すノスタルジアと既視感とある種めまいのような感覚は、過去の村上作品を知らなくても十分に感じることができるようになっている。短編集の基本的テーマは、10代から20代に経験した不思議な体験を、現在の(おそらく70代に手が届こうとしている)「僕」が振り返り、その頃のことを思い出しながら語り継いでいくという体裁を取っているからである。

さらにこの短編集の世界を複雑にしているのは、僕の(そして村上ワールドの)「過去」をテーマにしているにもかかわらず、語り手は、なぜかその不思議な体験の鍵を握るある決定的な記憶を欠落させている点にある。時には、その体験を思い起こさせてくれたり、証人となってくれる人が現れるけれど、彼らの話と僕の記憶は微妙に食い違い、僕はさらに途方に暮れることになる。この短編集は、ある懐かしい記憶を扱っているように見えるけれど、その記憶を現在と接続させる鍵が決定的に欠落している。さらに、この記憶に関わる他人の証言はその記憶を補強する役割など全く果たさず、逆にその記憶の揺らぎを増幅させ、より曖昧で不確かなものに変容させる。一見して無秩序に並べられ、いつもの村上ワールドが展開されているだけのように見えるこの短編集には、「記憶の揺らぎ」という通奏低音が流れている。その不安感は、過去の村上作品の記憶と反響し合いながらさらに世界を混沌としたものに変えていくようである。

こうして読んでいくと、短編集の最後に置かれ、タイトルにもなっている「一人称単数」という作品の特異性が浮かび上がってくる。まだ読んでいない人のためにネタバレはしないけれど、この作品だけが、(僕の記憶しているかぎり)過去の村上作品をベースにしていない「新作」である。もちろん、この作品もまた記憶をテーマにしている。しかし、この作品で語られる「記憶」は、一人称単数である僕の手から決定的に欠落しているものなのだ。その意味で、最後の「一人称単数」という短編は、それ以前の短編のネガのような役割を果たしていると言っても良いだろう。これまでの作品が、確実だと思われていた「記憶」が揺らぐことで生じる「僕」自身の確かさを脅かす物語だったとすると、最後の「一人称単数」は、決定的に不在である「記憶」がなぜか確実なものとして現在に侵入し「僕」を根底から脅かす物語となっているのだ。

これは、まるで「一人称単数」という新作の強度を準備するために、それ以前の作品が過去の村上作品のノスタルジアにくるまれつつ、徐々に最後の「記憶」の反乱に向けて読者の不安感を高めるよう周到に配置されたみたいだ。読者は、記憶の揺らぎの世界を辿りながら、最後に「僕」の現在にたどりつく。そこは、もう過去の記憶が語られない純粋な「現在」である。その意味で「現在」は、「一人称単数」とダイレクトにつながっている。しかし、その現在に、「僕」だけが知らないある過去が侵入してくる。このため、一気に「一人称単数」の世界は崩壊の危機に瀕する。こんな風に、「一人称単数」は、一見、バラバラに集められたかのように見えるけれど、実は周到に構成され、様々な仕掛けを施されたひとまとまりの作品であることが明らかになる。

もしかしたら、村上春樹は、この短編集によって、今までとは異なる新たな世界を発見したのかもしれない。もしそうだとしたら、次の長編は、この「一人称単数」を発展させたものになる可能性は十分にある。「パン屋再襲撃」の短編が「ねじまき鳥クロニクル」に発展したように。。。「一人称単数」をベースにどのような物語が展開されるのか、正直、僕にはまったく想像もつかないけれど、なかなか刺激的な内容になりそうな予感がする。たぶん、それは「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」の世界と親和性の高いものになるだろう。そこでも、村上春樹は「自分の記憶していない過去」に囚われた人間を主人公にしていた。でも、その世界は、「一人称単数」が提示した悪夢的な世界からみれば、まだまだわかりやすい世界ではあるのだけれど。。。

やれやれ、かくして、僕はまた、村上春樹の次の新作が出れば、ぶつくさ言いながら本屋に駆け込むことになるんだろうな。

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