トルーマン・カポーティ著「ティファニーで朝食を」
以前のブログで、ブレイク・エドワーズ監督の「ティファニーで朝食を」を紹介したとき、原作者のトルーマン・カポーティが映画作品に不満だったというエピソードに触れた。ウィキペディアの記述をそのまま鵜呑みにして書いたんだけど、その後、原作とどこまで違うんだろうというのが気になっていた。それを思い出して、本屋をぶらぶらしていたら、村上春樹の新訳が新潮文庫から出ていたので、早速、購入。やはり村上春樹訳は読みやすくて、一気に読んでしまった。こうやって、古典を新訳で定期的に更新してくれるのはありがたい。村上春樹の言葉を借りれば、「翻訳の賞味期限は意外と短い」から定期的に名作は翻訳し直さなければならないと思う。
で、原作を読んでみると、カポーティがオードリー・ヘップバーンを主演にすると聞いた時に反対したことはよく理解できるような気がしてきた。カポーティが描いたホリー・ゴライトリーという人物は、確かにオードリー・ヘップバーンとは違うタイプの人間である。ホリー・ゴライトリーは、世界に対する敵意のような、あるいは自分でも制御できないような毒を抱え込んだところがある。それは仕方がない。12才か13才で両親を失い、幼い弟と共に盗みをしながら生きていた少女が、14才で中年のやめもに拾われて結婚したのだ。そして、彼女は逃亡し、ハリウッドで拾われて女優になりかかるが、その直前にニューヨークに旅だち、まだ20才になる前に、ニューヨークの社交界のちょっとした寵児として派手な生活を送るようになる。目指すは、お金持ちの男と結婚し裕福な生活を送ること。そのためには男と寝ても気にしない。冷静に考えて、こんなタフな人生を送ってきた女性が天真爛漫なわけがない。だから、ホリー・ゴライトリーのイメージは、絶対にオードリーの清純で妖精のようなイメージには合わない。実際、オードリー側は、当初、映画の主演の話が来た時に難色を示した。確かに、オードリーに、こんなタフな高級娼婦は絶対にできない。女優としてできるかどうかではなく、彼女の商品価値を落とすことになる役柄をマネージャーが認めるわけがない。言い方は悪いけど、オードリーは極めて商品価値の高い映画女優であり、その当時、よごれ役を選択する自由などはなかったはずだ。
結局、映画は、原作に幾つか手を入れオードリーの清純なイメージを崩さない形に改変される。そして、ホリー・ゴライトリーの汚れ役部分の一部は語り手の「僕」に移される。原作では実直でさえない小説家の卵というキャラクターが、映画では金持ちのマダムに部屋代から生活費まですべて面倒を見てもらっている愛人として描かれることになる。でも、結局、映画はハッピィー・エンドで終わる。オードリーは旅立たずに「僕」との生活を(たぶん)続け、名無しの猫もオードリーの胸に戻ってくる。
一方、原作は異なる。それはそうだ。ホリー・ゴライトリー自身が言っているように、「野生の動物を愛してはいけない」のである。なぜなら、野生の動物は、傷ついた時に一時身を寄せることはあっても、回復すれば必ず自然に帰っていくから。ホリー・ゴライトリーとは、まさにそんな自由な存在だった。そんな彼女が、予定調和的にハッピィー・エンドに甘んじるわけがない。原作は、それを素晴らしいエピソードで語っていくので、気になる人はぜひ原作を読んでください。
自由なだけでなく、原作のホリー・ゴライトリーは、徹底したリアリストでもある。例えば、以下のような台詞をホリー・ゴライトリーは「僕」に向かって吐く。「僕」が、彼女のブラジル行きを止めようとした時の彼女の言葉である。たぶん、オードリーには決して言えない台詞だけど、その言葉には凄みがある。
それにぶちまけた話、ほかにもちょっとわけはあるのよ。舞台照明のちょっとした色の変化ひとつで、女の顔って生きもすれば死にもする。たとえ陪審員が私に名誉戦傷勲章を授与してくれたとしても、私はもうこの近辺で、これまでと同じようにはやっていけない。・・・・そして坊や、あなたにはわからないかもしれないけど、特別な才覚を頼りにやってきた私みたいな女にとっては、それはまさに命取りの状況なの。ええ、私はランクを落としでまで生きていきたくない。「ローズランド」あたりでウェストサイドのどんくさいやつらを相手にするような、そんなしみったれた生活は願い下げだわ。
でも同時に彼女は、冷静に自分を見つめる人でもある。例えば、次のような台詞。
映画スターになんかなれないってことは最初からよくわかっていたよ。女優って、とんでもなく大変な仕事だし、まともな神経を持った人間には馬鹿馬鹿しくって、とてもできることじゃないんだもの。そこまでの劣等感は私にはない。映画スターであることと、巨大なエゴを抱えて生きるのは同じことのように世間では思われているけれど、実際にはエゴなんてひとかけらも持ちあわせてないことが、何より大事なことなの。リッチな有名人になりたくないってわけじゃないんだよ。私としてもいちおうそのへんを目指しているし、いつかそれにもとりかかるつもりでいる。でももしそうなっても、私はなおかつ自分のエゴをしっかりと引き連れていたいわけ。いつの日か目覚めて、ティファニーで朝ごはんを食べるときにも、この自分のままでいたいの。
カポーティの筆、さえまくってますね。でもそんな強いホリー・ゴライトリーでも、世界が崩壊しかかる瞬間は存在する。物語の終盤、名無しの猫をタクシーから降ろした後、思い直して猫を探しに戻るけれど、見つからない場面の台詞。
「でも、私はどうなるの?」と彼女は言った。囁くような小さな声で。そしてまた身震いした。「私は怖くてしかたないのよ。ついにこんなことになってしまった。いつまでたっても同じことの繰り返し。終わることのない繰り返し。何かを捨てちまってから、それが自分にとってなくてはならないものだったとわかるんだ。いやったらしいアカなんてどうでもいい。太っちょの女だって、なんでもない。でも、こいつだけは駄目。口の中がからからで、どう力をふりしぼっても、唾ひとつ吐けやしない。」
村上春樹が訳者あとがきで述べているように、この名作がオードリーの映画版のイメージのみで語られるのは残念なことだと思う。映画は映画として尊重されるべきだけど、「できることなら映画からなるべく離れたところで、この物語を読んで楽しんでいただきたい」という村上春樹の言葉には深く納得する。やはり古典には力がある。
余談だけど、これも村上春樹があとがきで言っているように、そろそろ原作に忠実な映画を撮っても良い時期なのかもしれない。ホリー・ゴライトリーというキャラクターは、(14才で結婚させられたり、やたらとレズについて言及したりすることも含めて)1950年代にはスキャンダルな存在だったかもしれないけれど、今の時代であれば、彼女の生きかたや考え方に共感する人たちは多いと思う。ただ、問題は、誰がホリー・ゴライトリーを演ずるかという問題。村上さんもいい人が思いつかないと書いていた。
確かに難しいと思うけれど、とりあえず、思いついた配役。ひとつは、若かりし頃のアン・ハサウェイ。今は、年齢的につらいものがあるけれど、「プリティ・プリンセス」の華やかな感じと、「ダークナイトライジング」のキャットウーマンのタフな感じをあわせもった彼女であれば結構いい線いきそうな気がする。
仮に、日本に舞台を移し替えてリメイクするとすれば、今は亡き夏目雅子さんが適役だったと思う。そうすると、監督も今は亡き森崎東さんになるけれど、この組み合わせで、舞台を京都の花街あたりに設定したら、とてつもなくユニークなリメイクになったような気がする。まあ、森崎監督が引き受けるとは思えないけれど。。。
本当に、原作に忠実なリメイク映画、誰か撮らないかな。。。