ジャウム・コレット=セラ監督「蝋人形の館」

ジャウム・コレット=セラ監督の「蝋人形の館」をレンタル。セラ監督の「ロスト・バケーション」を気に入ったので、彼のデビュー作を見る気になった。

この作品は、これで3度目の映画化である。オリジナルは1933年のマイケル・カーティス監督作品。2作目は1953年のアンドレ・ド・トス監督の作品。この時のリメイクは、オリジナルとほぼ同じで、3Dカラー映画として製作されたのが売りだった。2005年のセラ監督の作品は2度目のリメイクだけど、舞台は現代のニューヨークに移され、登場人物や設定も異なっている。その変更点が、この作品の魅力であり、セラ監督の才気を感じさせる。

物語は、6人の若者達が大学フットボールの試合観戦のためにスタジアムに向かうところから始まる。一行は、カーリー・ジョーンズとその恋人のウェイド。カーリーの女友達のペイジとその恋人のブレイク。そしてカーリーの双子の兄ニックと友人のダルトンである。彼らは道中のキャンプ場で一泊するが、翌朝、何物かによってウェイドの車のファン・ベルトが切られていることに気づく。やむを得ず、カーリーとウェイドは、他のメンバーと別れて、近くの街アンブローズにファン・ベルトを買いに行く。なぜかアンブローズはカーナビにも載っていない街だった。街には人影が見当たらず、一軒の蝋人形館がそびえていた。そこにある蝋人形は、リアルでまるで人間そっくりだった。不安を感じる二人。ようやく出会ったガス・スタンドの店主ボーは、一見、善良な人間のように見えたが、カーリーは彼が、昨夜、キャンプ場の彼らに接近した不審な人物であることに気づく。そして・・・

前半は、ありきたりの若者ホラーの展開である。深夜のキャンプ場、謎のピックアップトラック、そして寝静まったキャンプ場を徘徊する不審な人影・・・。1999年に大ヒットしたブレア・ウィッチ・プロジェクト以来、流行した一人称カメラもしっかりと取り入れられている。でも、これだけであれば、この映画は普通のホラーで終わっていただろう。

セラ監督が持ち味を発揮するのは、アンブローズの街にカメラが入ってからである。過去2作と同様、人間そっくりのリアルな蝋人形が無気味である。この演出はうまい。しかし、セラ監督はさらに新しい要素を持ち込む。一つは、蝋人形の謎を蝋人形館から街全体に拡張したこと。人気のない夜の街で、なぜか急に灯りが点る。そのゴーストタウン的な恐怖感が強烈である。やはりアメリカのホラー映画は、こういう閉ざされた街全体を舞台に無気味さを増していく方が盛り上がる。街全体が狂気の空間となること。それは、多分、アメリカという国自体が抱え込んだ根源的な恐怖なのではないだろうか。タウンの自治を重んじるアメリカだからこそ、何か邪悪なことがタウンで起きても外部に知られることがない。閉鎖的なタウンに閉じ込められてしまえば、そこから脱出するのは難しい。その恐怖感をセラ監督は最大限に活用する。

しかし、それ以上に興味深いのは、セラ監督が、この映画の中で「双子の主題」を導入していることである。カーリーとニックは、双子の兄妹である。二人は互いに信頼し、親しいが、両親が「カーリーは善で、ニックは悪だ」と繰り返したことで、ニックはその言葉に導かれるように悪に走ってしまう。そんな兄を心配するカーリー。彼女は、その善良な性格で男達から愛されている。一卵性で同じ遺伝子を持ちながら、善と悪に別れてしまう双子。それは、そのまま6人を追い求める殺人鬼達にもあてはまる。興味深いのは、冒頭で提示される双子の兄弟も、同じように兄=悪、弟=善なのである。しかし、映画が進むにつれて、実は、善であるはずの弟が真の悪だったことが明らかになってくる。では、カーリーとニックはどうなのだろう。面白いのは、ここでも善悪が逆転するのである。当初、殺人鬼に立ち向かうのは悪である兄のニックなのだが、気づいたら役割が入れ代わり、善であるはずのカーリーが、様々な武器を駆使して殺人鬼に立ち向かう。

なぜセラ監督は、双子の主題と善悪の逆転にこれほどこだわるのだろうか。秘密を解く鍵は、この作品の中で引用される映画にある。カーリーとニックが殺人鬼に追われて街の映画館に逃げ込む場面。ここでも受付の者から観客まで皆蝋人形である。二人が映画館に入った瞬間、スクリーンに映画が上映される。それは、ロバート・アルドリッチ監督の傑作「何がジェーンに起こったか?」である。そう、ベティ・ディビスとジョン・クロフォードが呪われた姉妹を演じたあの名作である。この作品を観たことがある人であれば、映画のラストで明かされる衝撃の秘密を覚えておられるだろう。あの作品もまた、姉=善、妹=悪という関係が逆転する物語だった。どうやら、セラ監督は、この映画で、ロバート・アルドリッチ監督にオマージュを捧げつつ、「蝋人形の館」のリメイクにおいて、この主題を反復させたかったようだ。それが、監督にとってどのような意味を持つかは分からないけれど、この映画を単なる若者ホラー映画に終わらせない知的たくらみが隠されていることは確認しておきたい。

映画の最後も強烈である。「蝋人形の館」は文字どおり、建物自体も蝋でできている。カーリーとニックは、殺人鬼の兄弟と熾烈な戦いを館内で行い、炎に包まれた館を脱出する。炎にまかれて、蝋人形や殺人鬼達だけでなく、建物自体が溶けていく中、二人は柔らかくなった壁を必死で「掘り出し」て穴を開け、溶け落ちる館から脱出する。二人が壁に穴を開け、そこから逃げ出す姿は、どこか産道を経て外界に生まれ出る胎児を思わせる。逆に、溶け落ちる館の中で蝋の中に沈み込んでいく殺人鬼の双子の兄弟の姿は、望まれずに生まれ落ちた胎児が再び子宮の中に帰っていくようでもある。死と再生。もしかしたら、殺人鬼の兄弟の死と引き換えに、カーリーとニックは、新たな生を生き始めたのかもしれない。しかし、その生は、どんな生なのだろう?

映画は、最後、この物語が単純に結末を迎えたのではなく、さらに続く悲劇が続くかもしれないという予感を感じさせて終わる。実は、殺人鬼の双子の兄弟には、もう一人の弟がいたのだ。彼は、救急車で移送されるカーリーとニックが一瞬、車外に目をやった時に、二人に手を振る。そのにこやかさと裏腹に、彼もまた鋭利なナイフを駆使する人間だったことを忘れてはならない。

しかし、より怖いのは、もう一つの謎かもしれない。キャンプ場の場面で一人称主観ショットに使われていたビデオである。このビデオは、もともとダルトンが友人達を撮影していたものだった。しかし、夜のキャンプ場で、おそらくはボーによって盗まれ、その後は、ボー達双子の兄弟が持っていた。蝋人形の館が燃え落ち、双子の殺人鬼が死んだ後、警察がこのビデオを証拠品として押収する。しかし、ニックは、それを密かに盗み出して救急車に持ち込む。なぜ、ニックはこのビデオをわざわざ盗み出したのだろうか。映画では、彼は「死んだ仲間たちが映っているビデオを警察に渡すことはできない」と説明する。しかし、このビデオには、前半の6人の仲間たちの団らんの場面だけでなく、ボーが盗み出した後の映像も残されているはずである。そこには、悲惨な形で殺された他の仲間たちの姿も映っているだろう。実際、殺されたペイジをボーの弟ヴィンセントがビデオで映し出す場面がしっかりと映画の中で描かれているのだ。

ニックとカーリーは、このビデオをこれから観るのだろうか?殺害された仲間たちの悲惨な姿が映っているかもしれないこのビデオを?なぜ二人は、この悲惨な犯罪の証拠品であるビデオを隠そうとするのだろうか?そもそも、この二人はどういう関係にあるのだろうか?。映画の冒頭、ニックが罪を犯して捕まり、投獄されたけれど、現在は保釈中であることが示される。どうやらその捕縛にはカーリーも関わっていたこともほのめかされる。ボーとヴィンセントという二人の殺人鬼の物語と、この二人の善悪の逆転劇を見終わった後に、改めてニックとカーリーの関係を見直す時、もしかしたらこの二人もまたポーとヴィンセントと同じような存在ではなかったかということが暗示される。

この作品が真に怖い部分は、迫り来る殺人鬼ではなく、映画の中では明確に語られていない、こうした禍々しさを感じさせる何かなのかもしれない。

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