トム・フーパー監督「キャッツ」

トム・フーパー監督のミュージカル「レ・ミゼラブル」が強烈だったので、新作ミュージカル「キャッツ」をレンタル。そう、あのアンドリュー・ロイド・ウェーバーの傑作ミュージカル「キャッツ」の映画版である。多分、普通の映画監督であれば、あの傑作を映画化するなんて大それたことは考えない。オリジナル舞台の完成度が高すぎて、単にステージのドキュメンタリーにするか、あるいは全く別の世界に移し替えるしかないからである。

しかし、トム・フーパー監督は、この無謀な試みに挑戦し、不可能を実現してしまった。これはすごい。最新の映像技術を駆使して、すべての登場人物(登場猫?)は、人間のように二足歩行で歌い、踊り、話すけれど、その姿形や仕草はまったく猫なのだ。メイキングでその一端が明かされているけれど、俳優達は動物学者から猫的な仕草を徹底的に仕込まれたそうだ。視線の動かし方から、ふと相手に触れる手の動き、ちょっと耳の後ろを掻く仕草、あるいは呼びかけられて振り向く姿・・・その微妙な細部で俳優達は猫であることを説得力をもって演ずる。多分、全身を猫の毛で覆ったり、顔を猫的にメイクするというSFXの効果以上に、そうした微妙な動きによって、観客はキャッツの夢の世界に引き込まれる。

そして、圧倒的なダンス!ヒップホップからブレイクダンス、優雅なクラシックバレーまで、超一流のダンサー達が見せる華麗な動きは、オリジナル・ミュージカルを超えていると思う。しかも、トム・フーパー監督は、バスビー・バークレーに深いリスペクトを捧げつつ、カメラを縦横無尽に動かして切れの良いソロ・ダンスと、華麗な群舞を巧みに組み合わせていく。黄金時代のミュージカル映画の喜びが21世紀の洗練された映像技術でパワーアップして甦る。

さらにそこに、猫のサイズにあわせて設置された巨大なセットが花を添える。猫の大きさに合わせるために、通常の数倍の大きさで作成された家具や調度、扉や窓などの間を、猫たちが駆け抜け、飛び跳ね、落下し、踊り狂う。こうなると、所詮、ステージと客席の位置関係が固定されている舞台ミュージカルに勝ち目はない。映画によってミュージカルを創る喜びがあふれ出すような画面の連鎖に、観客はただ酔いしれる。

しかも、音楽はアンドリュー・ロイド・ウェーバー本人が参加して、曲を追加している。登場人物も、テイラー・スウィフト、ジェイソン・デルーロ、ジェニファー・ハドソンと実力派を揃えていて聴かせる。すべてが贅沢な作りになっている。

トム・フーパー監督は、映画化に当たり、オリジナルに幾つか新たなエピソードを加えた。一つは、冒頭に登場する新キャラの捨て猫ヴィクトリア。彼女がジェリクルキャッツのコミュニティに参加するプロセスを通じて、観客がキャッツの世界に入っていくようにできている。そして、お尋ね者の猫マキャヴィティが、オリジナル以上に悪漢ぶりを発揮して競争相手を次々に誘拐する。その時空を超えた神出鬼没の活躍が楽しい。マンゴジェリーとランペルティーザの双子の泥棒猫も大活躍で存在感を示している。

舞台版のミュージカルでは、観客と俳優が空間を共有することで一体感が生まれるため、ストーリーよりも生身の人間の歌唱とダンスが重視される。そのためにストーリーは最小限に抑えなければならない。しかし、映画は違う。たとえミュージカルであろうとも、観客は映画としての物語を求める。そのためにはストーリーが必要だ。トム・フーパー監督はその点をしっかり踏まえた上で、オリジナルの舞台に魅力的なエピソードを加えていく。

僕は、この作品を観て、ミュージカル映画の進化形を感じた。単にSFXテクノロジーが使われているという理由だけではない。ミュージカルの文体とナラティブの刷新をこの作品に見いだすからだ。

考えてみれば、トム・フーパー監督は、「レ・ミゼラブル」でも既に革新の第一歩を踏み出していた。「レ・ミゼラブル」のテーマは、ミュージカルにおけるクローズアップの力。通常、ミュージカル映画は、歌だけでなくダンスが入るためにミディアムから全身のフルショットを多用する。しかし、「レ・ミゼラブル」のように、リアリティが必要なミュージカルでは、そうしたダンス場面は全体のトーンを損ねる。だから、トム・フーパー監督は、「レ・ミゼラブル」において、俳優をほとんど動かさずに歌に専念させ、その歌う姿を表情の細部まで克明にたどれるようにクローズアップで捉え続けた。しかも、入念なメイクで顔のしわやシミまでも見えるリアリティで。この結果、「レ・ミゼラブル」は、ミュージカルであるにもかかわらず、シリアスなドラマを見ているような感情の葛藤劇として鑑賞することができる。これは、舞台からの距離が固定されている演劇版では不可能な映画の特権だ。

さらに、トム・フーパー監督は、クローズ・アップの単調さを避けるために、時折、壮大な俯瞰・鳥瞰画面を挿入する。冒頭の刑務所内の強制労働場面や、ジャン・バルジャンが教会から抜け出す場面の雄大さを思い出してほしい。クローズアップから鳥瞰まで、自由にカメラを動かすことで、観客の意識を思う通りに操作し、緊張感を途切れさせることなく歌に専念させる演出。「レ・ミゼラブル」は、ミュージカル映画の新しい可能性を切り拓いた。

そして「キャッツ」。トム・フーパー監督は、「レ・ミゼラブル」とは全く違う切り口でミュージカル映画を刷新しようとする。それは、徹底的に動きを追うこと。ダンスだけではなく、猫のような仕草を繊細にカメラに収め、さらに巨大なセットの中で縦横無尽に空間を移動する猫たちを移動撮影で追いかける。これだけめまぐるしくカメラと俳優が動き続ける映画も珍しい。ただ歌い、踊る姿を映し出すだけでなく、群舞からソロへ、ダンスからアクションへとめまぐるしく変わっていき、身振りや動きそのものが純粋な美へと昇華する過程をカメラに定着させようとする。それが、「キャッツ」の最大の魅力だろう。

この映画は、公開当時、極めて評判が悪かった。ゴールデンラズベリー賞では、最低作品賞、最低監督賞、最低脚本賞など最多6部門という不名誉な扱いを受けた。映画評も、猫の姿がグロテスクだとか、動きが気持ち悪いなど、散々な扱いだった。興行的にも、「スターウォーズ/スカイウォーカーの夜明け」とかぶったこともあり、大失敗に終わった。多分、舞台版のミュージカルをただ映像に移し替えれば良いとだけ考える保守的な評論家や映画関係者、観客にとってみれば、ここまでリアルに猫を再現し、しかもその登場人物/猫が圧倒的な迫力を持った歌とダンスを披露するという事態をうまく理解できなかったんだと思う。

さらに付け加えれば、この映画では、名曲「メモリー」の扱いが舞台版に比べて弱いというのも、反応が悪かった理由の一つだと思う。確かに、「メモリー」は名曲であり、舞台版ではすべてが最後の「メモリー」と、これを歌って天界に入ることを許される娼婦猫のグリザベラの救済の秘儀に焦点が当てられる。舞台版「キャッツ」の魅力はそこにある。しかし、映画版では、そこに焦点を当てない。もちろん、グリザベラは「メモリー」を歌うが、それほど長くはないし、彼女の昇天も、気球に乗って街の上空を飛んでいくというごく日常的な形で描かれる。そこには、舞台版のような秘蹟の感動はない。舞台版の感動を期待した人たちには、この結末は許せないかもしれない。

しかし、それは映画と舞台は違うことを理解していないためだ。映画でおなじことをしようと思ったら、たぶん、すごくつまらない映画になってしまうだろう。空間を自在に往還し、カットのつながりによって時間を自由に操作することができる映画では、舞台版のように閉じられた空間の中でクライマックスに向けて観客の意識を持続させる舞台版のような演出は不可能なのだ。その代わりに、トム・フーパーが焦点を当てるのは、猫のコミュニティ。このコミュニティに異邦人として受け入れられる捨て猫のヴィクトリアを新たなキャラクターとして加え、コミュニティの秩序を攪乱するマキャヴィティにより重要な役割を演じさせることで、トム・フーパー監督が目指したのは、「キャッツ」を「メモリー」の物語から、「ジェリクルキャッツ」のコミュニティの物語に変容させることだった。だからこそ、映画の中では、バスビー・バークレー的な群舞が圧倒的な魅力を放っているのだ。

だから、この映画は、天に召されるグリザベラではなく、広場の銅像の周りに集い、朝日を浴びながらグリザベラを見送る猫たちの姿を映すことで終わる。この映画の主人公は、共同体から追放され歌を通じて救済されたグリザベラではなく、捨て猫のヴィクトリアや娼婦猫のグリザベラやお尋ね者のマキャヴィティすらも受け入れ、歌とダンスでそうした者たちを浄化してしまうジェリクルキャッツ達そのものなのだ。

この映画が公開された時、映画評論家の柳下毅一郎さんは、「映画『キャッツ』は人類にはまだ早すぎたのかもしれない」と語った。僕もそうだと思う。多分、この映画は、ミュージカル映画の進化モデルを何十年も先取りした作品なのだ。

余談だけど、今、スピルバーグ監督は、ミュージカル「ウェストサイド物語」のリメイクを準備中である。ロバート・ワイズ監督が切り拓いたシリアス・ミュージカル映画をどう超えるかだけでも難題なのに、映画「キャッツ」のようなミュージカル映画を次のステージに引き上げてしまった作品が出てしまった後で、スピルバーグ監督が、初のミュージカル映画をどのように料理するか(あるいは、しないのか)。こちらも楽しみである。

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