ジョージ・キューカー監督「マイ・フェア・レディ」

少し明るい気分になりたいなと思ったので、BSシネマで録画しておいたジョージ・キューカー監督「マイ・フェア・レディ」を観ることにする。1964年の作品。オードリー・ヘプバーン、レックス・ハリソン主演のミュージカル。アカデミー賞は、監督賞、主演男優賞、撮影賞、衣装デザイン賞、美術賞、編曲賞、録音賞を受賞。その他、ゴールデングローブ賞、ニューヨーク批評家協会賞など多数の賞を受賞した、文句なき不朽の名作。

僕は、多分、子供の頃にテレビ放映で観ている。だから観た気になっていたけど、?十年後に改めて見直すと、記憶の中の映画と全く印象が異なることに気づいてびっくりする。僕の頭の中で、この映画はいつものようなオードリーのシンデレラ・ストーリーであり、教授と反発しながらもいつしか心が惹かれ合うようになるという心温まるラブ・ストーリーのはずだった。

でも、実際に映画を観てみると、この映画は英国の階級意識を強烈に皮肉った映画であり、特権階級の馬鹿息子の鼻持ちならないエリート意識を嘲った映画であり、そしてジョージ・キューカー監督の卓抜な空間造型と群衆処理を堪能できる洗練された映画だった。そもそも原作者があの風刺家のバーナード・ショーの「ピグマリオ」なんだから、素直に心暖まる映画になるわけがないのである。またまた自分の不明に深く恥じ入りました。。。

それにしても、階級間の対立をここまで徹底的に言葉の戦いとして描くのはさすがである。オードリー演ずる貧乏な花屋イライザが初めて登場した時の強烈ななまりと、いかにも育ちの悪そうな発声。それが、レックス・ハリソン演ずるヒギンズ教授の謎めいた特訓方法で、母音の矯正から始まって、ボキャブラリー、イントネーション、声色が変化していき、最後には物腰や話の内容も含めてエレガントな貴婦人に変容する。こればかりは、オードリーでしかできない名演。本当に完璧に変身してしまう。それだけではない。映画は、執拗な言葉の矯正/強制が、彼女の精神に及ぼす影響まできちんと描く。そこに制作陣の誠実さを感じる。

これに対して、ヒギンズ教授の嫌みたらしさとエリート意識も強烈である。まともな言葉を話せない人間は上流階級にあらずという信念。まともな話ができないと言うだけで人格を全面否定し、人間扱いしない鼻持ちならなさ。しかし、実はヒギンズ教授は上流階級に「まともな話し方」を教授することでしか生計を立てることができない能なしなのである。もちろん、裕福な家庭に生まれて財産はしっかりある。しかし、それだけなのである。だから彼のはなもちならないエリート意識や「まともな言葉」へのこだわり(そしてもしかしたら徹底的な独身主義も!)は、裏を返せば、それだけしか彼のアイデンティティを保証するものがないことへ不安感の裏返しでしかない。だから、ヒギンズ教授にとって、二つの世界を自由に行き来し、二つの世界の言葉を操るイライザは羨望の的でもあるのだ。

この物語の最後については、様々な紆余曲折があったそうだ。原作の「ピグマリオ」では、イライザはヒギンズ教授の元を去って戻ってこないバージョンもあったらしい。ただ、それでは舞台やミュージカル、映画にならないので、最後はハッピィー・エンドにしなければならない。それでも、原作が持つ皮肉や階級意識への嘲笑は残したいという苦肉の策が、この映画の微妙な余韻を残すエンディングになったとのこと。そう言われてみると、この終わりかた以外ありえない完璧な終わり方だったと思う。

これ以外にも、この映画の魅力はたくさんある。貧乏人が集う広場の猥雑さ、イライザの父アルフレッドの酒とたかりにまみれた人生賛歌、一転して上流階級の社交場の優雅さ、多分ミュージカルの舞台からそのまま受け継いだのだろうストップ・モーション(本当に俳優が動きを止める)のウキウキするようなリズム感、何よりも画面を覆い尽くす色彩の奔流が素晴らしい。画面一杯の花束から社交界での華麗なドレスの数々まで、豪華だけど調和の取れた色彩設計に息をのむ。

やっぱり名作はたまに見返してみるものですね。

余談ですが、どうも僕は、ジョージ・キューカーとフランク・キャプラのことを混同していたようです。今回、「マイ・フェア・レディ」の監督としてジョージ・キューカーのことをチェックしていて、あれ社会派の監督だと思っていたのになんか作品系列が違うなと感じ、一生懸命、記憶をたぐっているうちにフランク・キャプラにたどり着きました。そう、「スミス都へ行く」や「素晴らしき哉、人生!」のフランク・キャプラです。全然違うよね。そろそろ認知症が始まったかな・・・と少し不安になりました。やれやれ。

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