アンドレ・ウーヴレダル監督「スケアリーストーリーズ 怖い本」

アンドレ・ウーヴレダル監督「スケアリーストーリーズ 怖い本」を観る。2019年の作品。製作・脚本にギレルモ・デル・トロが加わっており、彼のテイストが強く感じられる。デル・トロは、お伽話の世界が現実に侵蝕してくる恐怖を描かせたら本当にうまい。

物語の舞台は、1968年のアメリカ・ペンシルヴァニア州ミル・ヴァレー。ハロウィンの夜、高校生のステラ、オーギー、チャックの3人組は、いじめっ子のトミー・ミラーに仕返しの悪戯をするが、怒り狂ったトミーは、仲間とともに3人組を追いか始める。あわてて逃げ出す3人組。彼らは、ドライブ・イン映画館でたまたま出会った放浪者レイモンにかくまわれて何とか窮地を脱する。意気投合した4人は、肝試しと称して町の幽霊屋敷の探検に向かう。

その屋敷は町の創設に尽力したベローズ家の邸宅だったが、ベローズ家は途絶え、今は無人となっている。屋敷は、入り込んだ子供達が何人も謎の死を遂げた不吉な場所で、町の人々は、ベロウズ家の娘、サラ・ベローズが黒魔術を使って子供達を殺し、彼女は今でもその邸宅に取り憑いていると噂していたのだった。4人は、屋敷の中に入り込むが、追ってきたトミー・ミラー達に、チャックの姉とともに隠し部屋に閉じ込められてしまう。そこは、かつてサラ・ベローズが監禁されていた部屋だった。彼らは、何とかその部屋を脱出するが、その部屋に残されていた一冊の本をステラが持ち帰ったことで、悪夢が始まる。その本は、空白のページに突然、物語が書き進められ、その物語の通りに、屋敷に入った人間が一人また一人と死んでいくのだ。。。

よくできたホラー映画である。幽霊屋敷のおどろおどろしい雰囲気。サラ・ベローズをめぐる不吉な噂。一人また一人と仲間達が死んでいく中で、呪われた本の謎を解明して何とか仲間の死を食い止めようとするステラたち。しかし、探索の途上でも、確実に不吉な本の呪いは仲間達に迫ってくる。やがて明らかになるベローズ家の忌まわしい過去。。。

これまでのデル・トロ監督の作品同様に、この作品でもこれ見よがしのスプラッタやおぞましいクリーチャーは登場しない。登場するモンスター達の造型は、どちらかというとファンタジー映画のような愛らしさを持っている。デル・トロ監督は、ビジュアルや音響による感覚的な恐怖に訴えようとはしない。むしろ、彼が描くのは、このような呪いを生み出してしまった人間たちの残忍さや、誰もが心の底に持っているトラウマ的な恐怖。そして、これを顕在化してしまう物語の恐怖である。

この映画は、「物語は人を癒し、人を傷つける」「繰り返し物語ることで、物語は現実となる」という印象的な言葉から始まる。そう、デル・トロ監督が主題としているのは、世界と物語の関係なのだ。人は知らず知らずのうちに、物語に侵蝕されて自分の生き方や価値観を支配されてしまう。その物語は、時には偏執狂的に繰り返し語られる家族たちの洗脳だったり、心ない町の人たちの噂話だったり、時には国家が顕揚するイデオロギーだったりするだろう。こうした物語は、人の心を支配し、従属させ、抗おうとするものを徹底的に痛めつける。その意味で、物語は暴力的ですらある。

しかし、同時に人は物語によって癒されもする。それは、現実から逃避するために読み耽るSFや童話の場合もあれば、信頼する友人や教師が語る物語の場合もあるだろう。ほんのささやかな物語が、傷ついた人を励まし、立ち直らせ、新たな生を始める力を与えてくれる。そう、物語は癒しの力も持っているのだ。

しかし、時にはそのように自分を支えてくれる物語に出会うことができない者もいるだろう。しかし、諦めてはいけない。そんな時には、自分自身で物語を立ち上げれば良いのだ。それはささやかな個人的な物語かもしれない。しかし、その物語が人々に読み継がれ、共感を得ることができれば、いつかその物語は社会を変えていくエネルギーを持つかもしれない。

この映画の最後に提示されるのは、「物語られることから逃れるためには、自分自身で物語らなければならない」という主題である。この映画は、1960年代のアメリカの地方都市におけるティーンのゴースト・ストーリーを扱いながら、そこにアメリカ社会が抱え込んだ深い闇と狂気に立ち向かうために、新たに立ち上げられる物語の可能性について語っている。この映画の時代設定が、ベトナム戦争が泥沼に陥り、全土で徴兵拒否者や公民権運動が吹き荒れていた1968年という年に設定されているのは意味がある。まさに、この時代に、若者達は国家が語る大義に異議を唱え、個人の立場から自分たちの物語を語り始めたのだ。その物語が徐々に集まって大きなうねりとなり、ベトナム反戦運動に結実したことは歴史が示しているとおりである。自分の生を絡め取ろうとする物語に対抗するためには、徴兵拒否のようにその物語から逃れようとするだけでは足りない。より力強い物語を立ち上げて対抗するしかないのだ。

同時に、1960年代は、精神病院における理不尽な監禁・拘束や非人間的な「治療行為」、保守的で閉鎖的なコミュニティがまだアメリカ社会を広く覆っていたことも忘れてはならないだろう。この映画の陰の主人公であるサラ・ベローズは、こうした社会の犠牲者だった。

言うまでもなく、こんな形で映画の主題をまとめても、この映画の魅力の1%も語ったことにはならない。この映画の圧倒的な魅力は、このような抽象的なレベルでの物語論などにあるのではなく、登場するクリーチャーのビジュアルであり、物語を進行させる映画的細部であり、そして観客をぐいぐいと物語世界に引き込んでいく語りにある。

面白いのは、サラ・ベローズの呪われた本が、ターゲットの最も恐れているものを顕在化するところである。それは、単純に蜘蛛のような虫の場合もあるだろうし、あるいはトウモロコシ畑にぽつんと立つかかしの場合もある。ねっとりとまとわりついて離してくれない母性的な存在も恐怖の対象である。だから、この映画の登場人物は、呪われた本が生み出すクリーチャーと対峙することで、実は自分の心の底に潜んでいる恐怖や闇と向き合っているのである。それを直視せず逃げだそうとすれば、死が待ち受けることになるだろう。逆に言えば、呪われた本の呪いから逃れるための唯一の方法は、モンスターが生まれてくる原因となった自分の心の闇と対峙し、これを乗り越えるための新たな物語を紡ぎ出すことである。その時、物語は虚構の世界から現実の世界に移行し、語り手の生そのものになる。

デル・トロが製作・監督する作品がもたらす感動は、彼の物語に対する確信にある。人は、物語を通じて世界を切り拓いていく存在なのだ。「物語は人を癒やし、人を傷つける。」「繰り返し物語ることによって、物語は現実となる。」「物語られることから逃れるためには、自分自身で物語らなければならない。」これは、デル・トロから観客に向けた励ましのメッセージなのかもしれない。

シェア!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。