相米慎二監督「セーラー服と機関銃」

BSシネマで録画したままになっていた相米慎二監督「セーラー服と機関銃」を改めて見直す。1981年の作品。相米慎二にとっては「翔んだカップル」につぐ2作目の作品であり、薬師丸ひろ子がスターになった作品でもある。脚本は田中陽造。出演は、薬師丸ひろ子、渡瀬恒彦、風祭ゆき、柄本明、三國連太郎など。相米組の常連の柳沢慎吾や寺田農も出演している。製作は角川春樹事務所とキティ・フィルム。主題歌も大ヒットし、メディア・ミックス戦略が成功した角川映画の先駆け的存在でもある。

そして何よりも、こうした映画製作をめぐる様々な意義を超えて、この映画はアイドル映画であり大ヒットした商業映画でありながら、通常の映画的文体を革新した実験的作品でもあるということである。この映画の成功がなければ、これ以降の相米慎二監督の「台風クラブ」や「ションベンライダー」のような傑作が生まれることはなかった。その意味で、相米慎二ファンとしては、角川春樹とキティフィルムに感謝しなければならないだろう。

多分、この映画のストーリーを今更紹介する必要はないだろう。女子高生の星泉(=薬師丸ひろ子)は、父が交通事故死したことで一人ぼっちの身となる。葬式が終わったのも束の間、一人残された部屋に突然、父の知り合いだったと称する女マユミ(=風祭ゆき)が押しかけて住み着き、さらに学校には弱小ヤクザの日高組が現れて泉を連れ出し、事務所で組長になってくれと頼み込む。組を仕切る佐久間(=渡瀬恒彦)の話によると、日高組は、泉の祖父が守ってきた由緒あるヤクザだが、松の木組の嫌がらせにあって、現在は風前の灯火だという。最初は、組長などできないと抵抗した泉だが、彼らの心意気にほだされて組長就任を引き受けることになる。そんな彼らに、怪しげな刑事がまといつき、日高組の嫌がらせはエスカレートし、さらに謎の麻薬組織が関わってくる・・・。

相米監督は、アイドル映画であるにもかかわらず薬師丸ひろ子に苛酷な演技を強いる。クレーンにぶら下げられてコンクリートの中に落とされたり、地雷原の台の上で不安定な姿勢で立ち続けることを強いられたり。。。今、こんなことをやったらパワハラで問題になるんじゃないかというぐらいの過激な演出である。しかし、こうした演出を通じて薬師丸ひろ子が女優として成長したことも事実。また、これを許容する角川事務所の度量の深さもあった。あの有名な機関銃乱射シーンで、薬師丸ひろ子の頬に一筋の血が流れる場面。演出かと思っていたら、あれは機関銃乱射で飛び散るボトルの破片で本当に傷がついたとのこと。映画撮影中にアイドルの顔を傷つけるなんてあり得ないので、プロデューサーが青ざめて即座に謝罪に向かったらしいけれど、角川事務所はそれで撮影を中止するというような反応はしなかった。製作側の度量の深さが映画の質を高めるという心温まるエピソードである。

それにしても、不思議な映画である。「セーラー服と機関銃」というタイトルの通り、アイドルがヤクザの組長になって機関銃を乱射する話だからもっと弾けていいはずなのに、映画全体は深く死の影に覆われている。そもそもこの映画は、老人の臨終で始まり、星泉の父の葬式の場面を経て、霊安室で死者を悼む場面で物語を終えるのだ。その間に何度も挟まれる死。それは、日高組の組員だけでなく、麻薬組織の狂ったボスによって殺された者達も含まれる。事務所のビルの屋上で、死者達を弔うために盛大に焚かれる火を遠景で捉えた場面の美しさに震えながらも、なぜアイドル映画にこれだけの死を詰め込まなければならなかったのかと考え込んでしまう。

そして相米作品ではお馴染みの主題たち。薬師丸ひろ子は、ここでも少女から大人の女への移行に戸惑い、逡巡する。大人の女であるマユミへの反発、佐久間への憧れ、しかし佐久間がセックスしている場面に立ち会ってしまうと動揺を隠せない。とはいえ、居心地の良い高校の仲間達に戻ることもできないのだ。相米作品に登場する少女たちは、思春期などと言う簡単な言葉ではやり過ごせないこの微妙で複雑な時期を生き残るために、あえて過酷な生を引き受ける。年上の男への憧れを心に秘め、精一杯背伸びをして大人の女たちと張り合いつつ、でもあえてセックスの領域に踏み込まない。相米監督は、そのもろく儚い生の一瞬をフィルムに定着しようとする。だからこそ、この映画は、マリリン・モンローの「7年目の浮気」のあの有名な通風孔の場面へのオマージュで幕を閉じる。そこには、相米作品に偏在する赤が、彼女を励ますように画面のあちこちに散りばめられていることを忘れてはならない。

さらに、この映画でも性の境界は揺らぎ、登場人物は衣装を次々に替えることでアイデンティティを曖昧化させる。カスバの女が歌われることで、束の間、世代を越えた連帯が形成される。松の木組の幹部室で常に壁いっぱいに上映されているヤクザ映画も含めて、どの画面でも相米監督はしっかりと作家としての刻印を残していく。

日本映画が大きな転換期を迎えていた時期に、多様な才能と偶然が重なったことによって生み出された、奇跡のように不思議で愛おしい映画である。

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