クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」

今日はゴールデン・ウィーク中の映画の日。本来であれば、ふだんはあまり足を運ばないロードショー上映館に行って新作をハシゴするところだけど、あいにく新型コロナウィルス感染拡大で新作の公開はほとんど延期されているする。その上、東京は緊急事態宣言が出されて一般劇場はほぼ休館。ウィークディには毎日、超過密状態の通勤ラッシュの中で数時間を過ごしている事実には頬被りして、密でもなければ食事も話もしない映画館や美術館を目の敵のようにスケープゴートにする。日本人は、黙々と働き、それ以外の時間は感染を抑えるために自宅でじっとしていろと言うことか。。。

感染拡大のピークを辿れば、2020年秋にGo To TravelとGo To Eatで人の流れを促進させたこと、2021年3月に東京オリンピックの聖火リレーを開始するためだけに感染収束前に緊急事態宣言を解除したことが、今回の第三波を招いた理由であるのは明らか。今回の第三波は、やむを得ない事態ではなく、明確に政府の対応の失敗が原因である。さらに言えば、2021年5月11日緊急事態宣言解除予定は、言うまでもなく東京オリンピックの開催の決断時期にあわせている。この国の政府は本当に国民の命を守る気があるのだろうか。感染拡大から1年以上経つのに、ワクチンはおろかPCR検査の態勢すら整わず、他のアジア諸国に比べても日本の感染率は高止まりしている。欧米諸国に比べれば一桁感染者数が少ないのに、医療崩壊が間近に迫るほどに病床確保はできていない。要するに、この国の政府は、欧米先進諸国どころか、周辺のアジア諸国に比べても、国民の命をないがしろにし、やってる振りだけで感染対策は取らず、その上、経済とオリンピックのような「国の威信」だけはなりふり構わずに守ろうとする。よくこれで日本人は反乱を起こさないと僕なんかは感心してしまうけれど、たぶん多くの日本の組織でも多かれ少なかれ同じような事態が横行しているのだろう。誰も責任を取らず、事態が崩壊するところまで行ったら、第二次世界大戦の敗戦の時と同じように「一億総懺悔」すればよいということか。でも、その崩壊で打撃を受けるのは、いつも物言わぬ社会的弱者であることを忘れてはならない。

つい、新型コロナウィウルの話で、感情的になってしまった。クロエ・ジャオ監督の「ノマドランド」である。こういう状況なので、映画の日は意地でも映画館で映画を観ようと思って、緊急事態宣言が出されていない横浜までわざわざ観に行った。つい最近、アカデミー賞の作品賞、監督賞、主演女優賞を受賞し、ゴールデン・グローブ賞も作品賞と監督賞を受賞している傑作だけど、館内は閑散としている。まあ、内容が重いから仕方がないんだろうな。。。

映画の舞台は、アメリカの中西部。ネバダ州の企業城下町エンパイアは、企業が破綻して人びとが去り、ついには郵便番号さえなくなってしまう。そこで暮らしていたファーンも家を失い、キャンピングカーで季節労働を渡り歩く「ノマド=遊牧民」としての暮らしを始める。ファーンの夫は既に亡くなっており、ファーン自身も60を超えている。普通であれば、引退して年金暮らしを始める年齢である。しかし、ファーンは働くことを選ぶ。とは言え、その仕事は、クリスマス休暇シーズンに大量のギフトの注文が発生するアマゾンの配送センターでの梱包の仕事や、農作業、工事現場、レストランの厨房などの低賃金の肉体労働ばかりだ。ファーンは、かつては事務員として働いたり代用教員として教壇に立っていたこともあるのに、ノマドとなってしまえば、こんな仕事しか残されていない。

そんな暮らしの中で、ファーンはノマドたちにサバイバルの術を教えるブートキャンプに参加したり、束の間の職場で同僚たちと交流したりという暮らしを続ける。ノマドたちは、一様に年老い、どこか問題を抱えているが、同時に自由で、プライドを持って自立し、そして束の間の人との触れあいを大切にする。それは、アメリカという国が建国以来培ってきた独立精神、開拓者精神の末裔のように見えなくもない。しかし、現実には、孤独で、けがや病気に怯え、駐車場で一晩を過ごそうとして警備員に追い出されたり、暖房もない車内で凍えそうになりながら過ごす日々でもある。この映画では描かれないが、実際には犯罪や襲撃もあるだろうし、健康保険に入っていない彼らは一度、病気になったら適切な治療も受けられずに簡単に命を落とすこともあるだろう。そもそも、彼らの多くは、自ら望んでノマドになったのではなく、失業や病気や戦場でのPTSDや高齢などで家を失い、ノマドになることを余儀なくされた人たちのはずだ。

でも、この映画は、そんなノマドたちの負の現実には焦点を当てず、あくまでも自由な精神を持った者たちの開かれた共同体としての物語を紡いでいく。ファーンは、ノマドたち向けのブートキャンプを立ち上げた指導者の教えを受け、そこで知り合った人たちとささやかに交流し、時に助け合う。ファーン自身も、その生活にひとときの心の安らぎを感じ、キャンピングカー村の住人たちにコーヒーを振る舞ったり、新年には花火を片手にハッピィー・ニューイヤーと触れ回ったりする。皆、やさしく、誇りを持って生きている。

この映画の魅力は、何度も映し出される広大な荒野の風景。夕暮れ時に、キャンピングカーが集結する広場の中をランタンを持ったファーンが歩いて行く姿を美しく捉えた場面が印象的である。さらにファーンは他に仕事がないときには、国立公園でトイレ掃除や管理人の雑務をこなしながら、雄大な自然の中を歩き回る。その自然も美しい。さらにキャンピングカーの中でも、ファーンは亡き夫や家族の写真を覗きスライドで見つめたり、思い出の品々を取り出して回想に浸ったりする。狭い車内に点る灯りに照らされた彼女の姿は繊細で、情感あふれるものになっている。こうした場面の数々が、悲惨なはずのノマドの生活をどこか詩的で愛おしいものに見せる。

映画はファーンの1年間の姿を描いた後、彼女が倉庫に預けておいたすべての思い出の品を処分して新たな旅に出るところで幕を閉じる。彼女は、1年間の旅を通じて、亡き夫の思い出にけりをつけ、過去の追憶に囚われるのではなく、新たな生を歩み出すことが出来るようになったのだろうか。クロエ・ジャオ監督は、何の説明も加えずに、ただ彼女の車が荒野に向かって新たな旅を始めるのを映し出すだけである。

一部の俳優を除くと、登場人物のほとんどが実在のノマドたちというドキュメンタリー的な映画制作も含めて、良い映画だと思う。ただ、同時に、フィクションであるために捨象されてしまっただろう、ノマドたちの負の側面が気になることも事実。Twitter上でも、ノマドたちの自由な生きかたやアメリカの広大な自然の美しさを賛美するコメントが多かった。高齢者が家を失い、不安定な低賃金労働に頼って肉体を酷使する仕事に従事しなければならないアメリカ社会の現実が、この映画によっていたずらに美化されてしまわないかと思うと、手放しには賞賛できない映画でもある。複雑な思いで映画館を後にした。

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