鈴木卓爾監督「All Night」
サンクス・シアターで鈴木卓爾監督のAll Nightを観る。2014年の作品。映画美学校アクターズ・コース第三期短編ゼミ作品ということで、出演はアクターズ・コース第3期生のみ。俳優達は半年間ワークショップを行い、わずか2晩でこの映画を撮り上げたとのこと。しかも、舞台はとある映画館の中だけ。上映時間はわずか69分。これだけ限定された条件にもかかわらず、この作品は豊かな映画的時間に満ちている。いつもの鈴木監督の作品同様に、静謐で、滑稽で、軽やかで、登場人物のふとした感情の機微に寄り添いながら、同時に、映画だけが提示できる「時と存在の深淵」がふと露呈してしまう瞬間を描き出す。
主な舞台は、映画館のロビー、映写室、そして観客席。時に、カメラは、エレベーター・ホールや映画館のカフェにも出ていくが、基本的には映画館ロビーがこの作品の主要舞台となる。映画館ロビーに所狭しと貼られた映画ポスターが魅力的である。鈴木清順、ゴダール・・・。これだけで映画好きならわくわくできる。
この映画愛に満ちた空間の中で、複数のエピソードが複雑に絡み合いながら進行していく。映写技師兼受付の女と彼女を手伝うアルバイトの女の子(ブータンの香り)、映画好きのカップル(ある男友達)、ミュージシャンとして奔放に生きる父親とその息子(父と息子)、一人の男性アイドルに熱をあげる追っかけファンの2人の女性(ファン)・・・。
いつものように、鈴木監督作品の登場人物達は、何気ない会話をただ続けていく。彼らの関係はどこか奇妙で、少しだけ日常から遊離している。どこにでもいそうで、決してどこにもいない彼らのちょっととぼけた味わいのある会話が愛おしい。たとえばそれは、追いかけているアイドルと握手して「結婚してください」と口にしてしまい、どうしたら結婚できるか真剣に悩むファンであり、あるいは別居中の息子を映画館で待ち伏せして息子の金で一緒に映画を観ようとするだらしない父親だったりする。彼らはごく普通に会話をしているだけなのに、そこにはどこか狂気にも似た非日常性が感じられる。そのギャップが、観ている観客の心にささやかなさざ波を引き起こす。
たぶん、鈴木監督作品の会話の魅力は、相手に対して深い感情を抱えているにもかかわらず、その想いをうまく会話で伝えることが出来ないもどかしさとかそれゆえの不安感が、繊細に映画にすくい上げられているところから生まれるのだろう。どうすれば、自分のこの想いを相手に分かってもらえるだろうという気持ちを抱えて、告白する瞬間の到来を待ちながら会話をただ持続させる登場人物たち。でも結局、言葉は決してそんな想いを伝えることは出来ないという諦念。そんな感情を交錯させながら会話は進行していく。でも、時にこうした想いは、突然の握手や腕を組むというふとした動作で一気に共有されてしまう。その感動的な一瞬にむけて、持続と遅延を繰り返す会話。それが鈴木監督の会話の魅力なのかもしれない。
そして、なんとも不思議な魅力を湛えた登場人物達。もっとも印象的なのは、映画館の受付アルバイトの女の子。間違えてロビーに入り込んでしまったこの女の子は、気付いたら受付アルバイトとして働き始めている。どうやら彼女は、かつてブータンで暮らしていたことがあるらしい。どこにでもいるような感じの女の子が、とつぜん、ブータンの幸福度指数について語り、チベット仏教について語り始める。不思議な空気をまとった彼女の存在で、この映画の時間は奇妙なうねりを見せるようになる。例えば、それは、彼女が受付に座って袋の中のチベット料理(たぶんチベットのモモ?)を黙々と食べている場面。時折、飲み物を買いに来た観客の相手をしながら、彼女はただ食事を続ける。この場面は、何も起きないにもかかわらず、なぜかこの映画全体の中でとても重要な役割を果たしているように見える。それは、固定ショットで捉えられた長回しの画面であるにもかかわらず、紛れもなくある充実した時間の持続が描かれているためだろう。映画は時に、そんな魔法のような時間を提示してしまうのだ。
このように幾つかのエピソードが進行していく中で、この映画は唐突に時を超越し始める。その切り替えの場面は、ほんの一瞬で観客は最初、何が起こったか分からないぐらいである。でもこの場面が持つ意味はとても深いと思うので、ぜひこの映画を実際に観て確認してほしい。こんな形で映画は、時間の流れを超えていくことができるんだと、ただ呆然としてしまい、次の瞬間に、この時間の転換はもしかしたら映画という表現形態の本質をついているのかもしれないと考えさせられてしまう、そんな哲学的な問いかけをはらんだ場面である。しかも、これに続く荒唐無稽のアクションによって観客はあっという間に、映画が開示した秘蹟のような瞬間を自然に受け入れてしまうのだ。ここに鈴木監督作品の魔術がある。
この映画は、映写室で映画を上映する場面から始まり、幾つかのエピソードを経て、再び映写室の場面に戻る。そして、カメラは映写室を出て観客席に移り、映写室から溢れ出る光と一人観客席でスクリーンを見つめる女性の顔を映し出すだろう。「ニューシネマ・パラダイス」、「カイロの紫のバラ」、「ゴダールの兵隊」、「キートンの探偵学入門」、「楽日」、「ラスト・ショー」・・・。映画好きであれば誰でも一度は目にしたことがある、あの懐かしい光景が映し出される。
映写室の中と外で同じスクリーンを見つめる二人の女性の視線の一致。スクリーン上の映像は決して映し出されず、ただスクリーンに推移する光のうつろいを瞳が受け止めている。この映画愛に満ちた瞬間を前にして、これまで笑い、そして時にはホロリとしながらこの映画を見てきた観客は気づくだろう。この映画は、映画館を舞台にちょっと奇妙な人たちのエピソードを紡ぎながら、実は「映画を観る」というもう一つの隠された主題を巡る思索でもあったということを。スクリーンから発せられる光を受け止める瞳のイメージ。無限とも言える物語と場面は、結局、その瞳によって初めて映画として生成されるのだ。
わずか69分で、これだけ豊かな映画的喜びを満喫できる作品を撮り上げてしまうなんて。やはり鈴木卓爾監督はただ者ではない。すべての映画好きに観てほしい傑作でした。