濱口竜介監督「親密さ」

サンクスシアターの視聴期限が迫ってきたので、今日は腰を据えて濱口竜介監督の「親密さ」を観ることにする。4時間15分の大作。落ち着いて観るには日曜日の午後をつぶすしかない。でも、それだけの価値があった充実した内容。ほとんど長さを感じさせない。

この作品は、2012年のENBUゼミナール映像俳優コースの卒業制作として製作された。濱口竜介はコースの講義を担当していて監督を引き受けることになったらしい。濱口監督は、3年後の監督作品「ハッピーアワー」がロカルノ映画祭で最優秀女優賞を獲得し、一気に国際的に評価される映画作家となるが、「親密さ」にもその独特の手法が良く表れている。

映画は、「親密さ」という演劇作品を巡って展開する。映画の前半は、この作品を共同で製作している一組の男女の葛藤を舞台制作と同時進行で描く。後半は、完成した「親密さ」を記録映画のスタイルで淡々と辿る。こう書くと、カサヴェテス監督の「オープニング・ナイト」のような作品をイメージするかもしれない。確かに、カサヴェテスのタッチも濃厚に感じられるけれど、完成した舞台を丸々記録映画として後半に提示することからも明らかなように、この映画は単なるバックステージものにとどまらない映画的仕掛けに満ちた作品に仕上がっている。観ていると、映画史を刷新する何か新しい事態に立ち会ってしまったような、深い感動と驚きに包まれてしまう。凄い作品だと思う。

物語は、「親密さ」の読み合わせの場面からはじまる。良平の一見棒読みのようにも聞こえるセリフにあわせてある男優がセリフを読み上げるのだが、共同演出の令子と良平から何度もダメ出しされる。ダメ出しはあくまでも落ち着いたものだが、どこかにトゲが感じられなくもない。良平の棒読みのセリフが、そこに隠された冷ややかな感情の気配を感じさせる。男優も、他の役者達も鋭敏にその攻撃的とも言える何かを感じ取っているように見える。

その後、令子と良平は、電車に乗って帰宅の途につくだろう。二人は車中でも舞台の方向性について話し合う。令子は良平に、「今回は、二人とも俳優として出演しない方が良いと思う。演出は自分が行うので、良平は脚本と舞台装置を担当してほしい」と告げる。ここでもまた、二人の対話は、落ち着いて言葉を抑制しているように聞こえるが、その底には何か禍々しいまでの不穏さが感じられる。親密だけれども、どこか相手を拒否しているような感覚。しかし、良平は、感情をあらわにせず、令子の提案を受け入れる。そのまま令子は、電車を降りてバイト先のバーに向かい、良平は令子の提案を受けて徹夜で脚本の手直しをする。令子が早朝に帰宅したときには既に良平は厨房でのバイトに出かけており、机の上には改訂された脚本が置かれている。。。

こうして長い物語がはじまる。新たな脚本に基づき、新しい配役での練習が開始されるだろう。しかし、良平が時に令子や俳優達に吐き出す言葉や態度はどこかとげとげしい。練習は進まず、俳優たちの心も離れていく。さらに、北朝鮮による韓国への砲撃事件が起こり、南北間で戦闘が開始されるというニュースが流れる。義勇軍が組織され、日本でも義勇兵の募集がはじまる。他の役者達も、徴兵が始まるのではないかとか、日本も戦争に巻き込まれるのではないかと心配し始める。停滞した事態を打開しようと、令子は俳優への個別インタビューを行ったり、戦争についての討論会を開催したりするが、良平と令子の気持ちはどんどん離れていき、俳優たちも上演までの準備期間がわずかしか残されていない中、こんなことをしていて良いのかと感じ始める。そんな中、男優のひとりが、韓国に住んでいる兄の連絡が途絶えたことを心配して、自分は義勇軍に志願し、舞台からおりると皆に告げる。。。

たぶん、こんな形で映画のあらすじを辿っていっても、この映画の魅力を伝えることは出来ない。この映画の魅力は、まさに映画の中で展開される俳優たちのアクション、映像と音響、時折挿入されるテキストメッセージやニュース映像、あるいは独特の抑揚をつけた台詞回しにあるからだ。これだけは、観るしかないし、どんなに言葉を連ねても、その感動を伝えることは出来ない。

例えば、令子が未明の薄明かりの中、長い橋を渡って帰宅する場面。令子は、その薄明の中、鉄橋を通過する列車に向かって、突然手を振り、投げキスをし続ける。最初、観客は何ごとが起こったか分からないまま、呆然と彼女の突然のアクションを観続けることになるだろう。カメラが切り替わって鉄橋を通過していく列車を遠景で捉え、まだ明け切っていない朝の光の中で、蛍光灯の色がぼんやりと浮かぶ車内の中にいる良平を一瞬映し出す。そう、令子は、自分と入れ替わりにバイトに出勤する良平に手を振っていたのだ。それは、その後、二人で交わされるテキスト・メッセージで判明することになるが、この美しい未明の光の中で、距離を介して一方的に投げ出される無償の愛情表現は途方もなく美しい。

同時に、これが良平に気づかれもしないことのやるせなさ。テキスト・メッセージの交換のぶっきらぼうさもまた、二人の微妙な関係を告知している。しかも、この場面の背後には、そんなロマンチックさに水を差すように、橋の上を行き交う車の騒音がひっきりなしに響いているのだ。このわずかな場面に盛りこまれている情報の濃密さと強度にはほとんど圧倒されてしまう。濱口監督の脳の中にはいったいどのような複雑な回路が組み込まれているのだろうか。この場面だけでも、映像、音、演技、ストーリー展開上の意味、カメラの切り返しなどが複雑に絡み合い、相互に影響を与えながら、なおかつショットとして高い完成度を持っているのだ。

同様の演出は、随所にこの映画に表れる。たとえば、令子が俳優たちにインタビューを行う場面。二人きりでほぼ膝詰めにまで近づいた状態でインタビューは始まる。カメラは、二人の位置関係を手際よく示した後で、ほぼ顔だけのクローズアップの切り返しに移る。その映像が美しい。なぜか背景は暗くなり、ライティングで深い陰影を浮かび上がらせた令子と男優の顔のアップが映し出され、インタビューの対話が始まる。その顔は、まさに膝詰めの距離で人間が感じる距離感だ。その距離は、もしかしたら映画のタイトルでもある「親密さ」を表しているのかもしれない。最初の男優との対話は、ぎこちなく始まるが、徐々に二人の距離を縮めていく。それが可能になったのは、二人が演出家と俳優という関係を離れて自身のプライベートな部分をさらけ出したからだ。短時間の会話にもかかわらず、観客はそこにまぎれもなく「親密さ」が立ち現れてくることに気づくだろう。そして、会話の区切りがついたときに大きく背後にのけぞって感動を顕わにする令子の姿には、どこか官能的なものさえ感じられる。それは、同じ屋根の下で暮らしている良平とのあいだでは決して観られない姿である。

続いて、良平とのインタビューが始まる。しかし、前回とは打って変わって、二人の会話は冷ややかである。何とか距離を埋め、良平との親密さを回復させようとする令子の言葉を良平は常に拒否する。前回の対話における濃密すぎるまでの親密さとは対照的なよそよそしさ。そこには悪意すら感じられる。決して心を開こうとせず、相手の言葉を絶えずひっくり返そうとする良平。結局、良平は自分の言葉に導かれるように激高していき、ついには椅子を蹴って立ち上がる。いたたまれないほど長い沈黙。この二つのインタビューを並置することで、濱口監督は鮮やかにこの「親密さ」の可能性と不可能性というこの映画の主題を提示してしまう。それだけではない。この長い沈黙場面を注意深く観ていると、そこにはかすかながら声が聞こえるのだ。その声は、窓の外から漏れ聞こえてくる街の音だ。しかもただの騒音ではない。その音は、おそらく建物から少し離れたところを通り過ぎていくデモ隊のシュプレヒコールなのである。デモ隊は、朝鮮半島で始まった戦争に日本政府が自衛隊を派遣して介入するのに反対し、若者を徴兵することに反対している。一組の男女のプライベートな葛藤と相克をこれだけの強度を持って描いている場面に、あえて政治と社会を挿入しようという強烈な意思。しかも、そのシュプレヒコールは一方的に投げかけられるだけで決して相手の耳には届かない虚しさを秘めている点で、もしかしたら令子が良平に語りかける言葉と同じなのかもしれない。この一瞬の場面でも、やはり濱口監督は音と映像とセリフと意味を重層化させる。濱口監督のただならぬ才能を感じさせる場面である。

そしておそらく最も感動的な場面は、前半の舞台制作の最後の部分だろう。一人の男優が義勇兵に志願して去り、なんとか舞台を成立させるために令子は良平に代役を依頼する。いやがる良平。しかし、令子はあえて良平の脚本を書き換えて良平に出演を迫る。自分の脚本に手を加えられたことに激高して、深夜、家を飛び出す良平。令子は彼の後を追い、電車の中で良平に追いつく。何も言わずに下車する二人。二人はそのまま夜を彷徨し、やがて自宅に戻る長い橋を渡り始める。ここから10数分に及び長いワンショットが始まる。

カメラは最初、暗闇の中、並んで橋を渡り始める二人を背後から映し出す。夜なのに車の往来は絶えず、そのヘッドライトと騒音が煩わしい。そんな中、二人はポツポツと言葉を交わし始める。「いつまでも黙り続けているつもり?」「別に」「一つ聞いて良い?」「おまえ、ほんと質問下手だな」「え?」「そんな聞き方したら相手を警戒させるだけだろ」「逆に警戒を解いてもらうために言ったんだけど」「分かってないな」・・・。

こんな風にぎこちない会話が始まる。それから二人は、話し続けるだろう。開幕が迫っている舞台について、戦争について、義勇兵に志願した男優について、二人の関係について・・・。カメラは、二人に連れ添うように移動していく。そのゆるやかな動きに共振するかのように、二人の会話からは徐々にぎごちなさがほぐれていき、親密さが芽生えていく。これまでずっと良平の頑なな拒否を目の当たりにしてきた観客は、ここでようやくかすかな希望を見いだす。そして、そこに至るまでの令子の不屈とも言うべき良平への語りかけの努力を思い出すだろう。「親密さ」はある時、恩寵のようにおとずれるものかもしれない。しかし、その恩寵に立ち会うために、人は無限とも思える長い忍耐と、言葉など何の役にも立たないという深い断念にもかかわらず、もしかしたら今度は相手に届くかもしれないという祈りにも賭けにも似た言葉を立ち上がらせる果てしない努力が必要なのだ。

この長いワンショットの場面は、最後にカメラが二人を追い越して正面から彼らを捉えることで終わりを迎える。橋を渡り始めたときにはまだ深い闇に包まれていた空は、気づいたら未明の光を湛えた濃紺へと変わっている。さらに二人が橋を渡り終えようとするときには、かすかに朝焼けの紅色も差し込んでいる。いつの間にか、二人の手はつながれ、肩を触れあわんばかりに寄り添って歩いている。長い葛藤と対話を経てようやく親密さに達することが出来た二人を祝福するように輝く未明の空の光。こんな奇跡的なショットに立ち会ってしまったことに観客は言葉を失ってしまうだろう。

映画は長い歴史において、二つの孤独な魂が束の間にせよ触れあい、共鳴し合う場面を繰り返し描いてきた。劇的な再会や抱擁、キス、互いの顔をまさぐり合うこと、異なる声が一つの歌となること、かすかに触れあう手と手、あるいは一瞬の視線の交錯・・・。この感動的な場面を提示するために映画は様々な技法を開発してきた。しかし、これだけの持続と強度によって魂と魂が親密さを回復させ、それを世界が祝福してしまうと言う場面はいまだかつてなかったと断言しても良いだろう。そんな奇跡を、軽々と実現させてしまった濱口監督の才能にはただ痺れてしまう以外にない。

この映画の素晴らしさは、とてもこんなブログで語り尽くすことが出来ない。それほどまでに、この映画は革新的で、魅力的だ。俳優の台詞回し、時に凶暴に自己主張する音響(映画の前半に登場するプリンタの轟音とそこから文字どおり「吐き出される」用紙の圧倒的な存在感!)、要所要所に句読点のように挿入されるテキスト・メッセージ、夜の闇を走る列車の蛍光灯、電車内の対話、陰影のコントラストを際立たせた照明設計、テキパキとした動きの中に過酷さを感じさせるワンオペの厨房風景・・・。印象的な場面を挙げていけば、結局、すべての場面を語ってしまうことになる。

さらに、「親密さ」の上演舞台。単なる舞台の記録映像ではなく、いくつもの仕掛けが施されている。2時間近い前半部分を観てきた観客にとって、それは舞台でもあり、同時に映画の延長でもある。舞台上で演じられるセリフや演技の幾つかには前半部分の反響が読み取れるだろう。内容面でも、伝えようとして伝わらない言葉という主題が舞台にも底流している。さらにカメラワーク。前半部分で、膝詰めの状態に近づいた二人の対話をほぼ顔のクローズアップの切り返しで描いたカメラは、同じフレームの切り返しを舞台にも導入する。しかし、フレームは同じだが、舞台上の二人は、膝詰めで向き合っているわけではなく、舞台上の端と端に離れて座り、しかも二人とも観客席の同じ方向を向いているのだ。観ている観客は、これまで映画史で培われてきたカメラの切り返しという単純すぎる技法がいったん解体され、新たな輝きを帯びて再生される現場に立ち会ったような感覚にとらわれる。まったく同じフレームが提示されるにもかかわらず、俳優の位置関係は決定的に異なっているという不思議な事態。このように、今まで映画が培ってきた様々な技法が一度相対化され、その意味が徹底的に吟味・解体された上で、ただこれしかない形で再生されているのだ。

その意味で、この映画は、男女の葛藤を描いた作品という外見とは裏腹に、文字どおり「ラディカル」で革命的な作品になっていると言えるだろう。僕は、濱口竜介監督の「寝ても覚めても」にはこれだけの衝撃は受けなかった。良くできた映画だと思うけれど、どこか商業映画の枠を超えないように周到に設計されていると言う印象だった。むしろ、濱口監督は、その鋭利な映画評論と語り口に魅力がある人だと思っていた。例えば、彼の相米慎二論などは、映画を撮ったことがある人間でなければ決して語れない決定的な映画的細部に着目した希有の分析だと思う。また、ジャック・ベッケル映画特集の「怪盗ルパン」上映後に彼のトークを聞いた際には、映画を活性化させるために空間をどのように設計し、俳優をどう動かしていくかについて、まるでベッケルが乗り移ったかのように熱っぽく語る濱口監督の話に耳を傾けながら、この人は本当に映画を根源にまで遡って分析してしまえる人だなと舌を巻いた記憶もある。たぶん、濱口監督という人には、一つの作品の中に映画的魅力や細部が多層的に凝縮されていて、まるで精密機械を解体してまた組み立ててしまう子どものように、その魅力を抽出できる才能があるのだろう。その濃密な映画的知性の成果が、「親密さ」には詰め込まれている。

まだまだ語り足りないけれど、とりあえずここで筆をおくことにしよう。新作の「ドライブ・マイ・カー」の公開までには、未見の「Passion」と「ハッピー・アワー」を観ておかねばと思う。「偶然と想像」もどこかで観れないかな。。

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