西河克己監督「絶唱」(1975年版)

BSシネマで、西河克己監督の「絶唱」を見る。主演は、いつものように山口百恵と三浦友和。70年代に入り、西河監督はこのカップルを主人公に、「伊豆の踊り子」「潮騒」「絶唱」「春琴抄」「霧の旗」・・・と立て続けにリメイク作品を監督している。スタッフも俳優もほぼ同じ。「絶唱」も1966年の自作のリメイクであり、さらにそれは1958年の滝沢英輔監督作品のリメイクだった。リメイクを重ねながらその物語に神話性を加えていく西河監督の手法はここでも健在である(西河監督の神話性については、以前のブログでも論じたので良かったらご覧下さい)

物語は、第二次世界大戦が深まりを見せる鳥取県のとある山村。大地主の園田家の跡取り息子順吉(=三浦友和)は、貧しい山守の娘小雪(=山口百恵)と恋に落ち、父親の命に背いて家を出て小雪との生活を始める。支えてくれるのは、文芸仲間の若い友人達。鳥取砂丘のそばの町で束の間、ささやかな幸福に浸る二人だったが、やがて順吉の元に赤紙が送られてきて順吉は出征してしまう。一人けなげに働きながら順吉の帰りを待つ小雪。しかし、厳しい肉体労働の中で彼女は徐々に病に冒されていった。。。

この映画は、どっぷりと昭和の世界を引きずっている。封建的な家制度。厳格な父親が強制する見合い話。それに背くことは、家を出て働かざるを得ないことを意味する。また、小雪にとっても、大地主の父親に反旗を翻した順吉と共に駈け落ち同然で村を出ると言うことは、閉鎖的な村の中で父母が孤立し、村八分の憂き目に遭うことも意味する。二人にとって、愛を貫くことは自分たちだけでなく周りの人間達にも迷惑をかけることになるのだ。さらに戦争の影が深く二人の上に立ちこめる。戦時下の劣悪な栄養状態と重労働で健康を害しても十分な医薬品もない。。。。

この映画を観ながら妙な感慨に浸る。平成を終えて、令和に入った時代に、ほぼ半世紀前に撮られたプログラム・ピクチャーを見ることの意味は何だろうか。昭和の世界を思い起こして感傷に浸る?戦争の悲劇に改めて思いを馳せる?あるいは時代を超えて普遍的な男女の純愛に涙を流す?

たぶん、こうした見方はすべて正しい。西河克己監督の演出は、極めて正統的である。映画のはじめ、小雪が山中を駆け抜ける姿が映し出され、銃声が唐突に響く。緊迫感のある出だしる。山口百恵の方言も堂々としていて、同じ地方に住んでいながら京都の大学に通っていてほぼ標準語を駆使する順吉とその文学仲間との対比が、彼らの間に横たわる深い育ちや文化の差を浮き彫りにする。こういう細部のリアリティが物語に説得力を与える。

何よりも、山口百恵の圧倒的な存在感。他の女優であれば、歯が浮いてしまうようなセリフや演技でも、彼女が演ずればリアリティを持つ。貧しい育ちの娘のささやかな幸福。薄幸の美少女という言葉をそのまま体現してしまう彼女の静謐さあふれる顔。見るからに育ちの良さそうな三浦友和と、見るからに暗い影を背負っている山口百恵のカップルを見ているだけで映画を観た気になる。

とは言え、やはり西河監督は、そこに神話性を付与する。

例えば、色彩。山口百恵は、赤い衣装を身にまとって登場する。それは彼女が山の娘であり、囲炉裏の火と感応しながら、自然の中で暮らす純朴な存在であることを象徴しているだろう。しかし、物語が進むにつれて、徐々に彼女の周りから赤が消えていき、山口百恵の白い肌とこれを取り囲む単調な色彩が画面を覆い始める。これに伴い、赤は不吉な色へと変容を遂げていく。赤は、順吉を小雪から奪って戦場に駆り立てる赤紙の赤であり、あるいは小雪が肺を病んで憔悴し透き通るような白い肌になった時に突然襲いかかりやがて彼女の命まで失ってしまう喀血の赤となる。

禍々しい色彩に変容を遂げた赤。だから、観客は、小雪が鳥取砂丘を無防備に歩いている姿が遠景で映し出され、その単色の画面の中でなぜか赤い靴下だけが際だって見える時に不吉な予感に捕らわれる。その赤い色が、何か禍々しいものを呼び寄せているかのようだ。その予感通り、小雪を砂丘で見つけて近づいてきた友人は不吉なメッセージを伝えるだろう。これを聞いて絶望した小雪は徐々に命をすり減らしていく。そして映画の最後、小雪は純白の婚礼衣装に身を包んで登場する。色彩あふれる山中の疾走から、単色の世界で色彩を失い純白の世界に包まれてしまうまでの変容を通じて提示される薄幸の娘の物語。そこに西河監督の美学がある。

そして、歌。順吉が戦地に赴いたために別れ別れになった二人は、毎日、午後3時に仕事の手を休めて、木遣り歌を歌うことを約束する。はるかな距離を隔てて連絡など取りようのない二人の間をつなぐのがこの歌である。同じ時間に同じ歌を歌うことで、戦場と砂丘の距離を超えて愛し合う二人がお互いの存在を触知し合う場面。西河克己監督の作品において、繰り返し演じられるこのはるかな距離を無効化する歌や身振りは、まさに西河監督がこだわってきた身分を超えた悲恋の成就をシンボリックに表していると言えるだろう。この時、小雪と順吉は、現実の世界を離れて神話の世界へと移行する。

この神話的世界において、小雪は歌う人であると同時に聞く人にもなるだろう。彼女は、映画の冒頭から、誰にも聞こえない順吉のはるか遠くの足音を聞き分ける能力を持っていた。それは、映画の半ばとクライマックスの場面でも繰り返されるだろう。身分も異なり、言葉も異なる二人をつなぐのは、歌であり、音である。鳥取砂丘のはるか彼方から近づいてくる順吉の足音を聞き分けて、病床で横たわった小雪が「あの人が帰ってくる」と呟く場面の強度の背景には、西河監督の神話的思考が息づいているのだ。

やはり映画は面白いと思う。1970年代の純愛プログラム・ピクチャーを、ほぼ半世紀を隔てた観客として改めて見直してもそこに発見がある。むしろ、当時の時代背景や三浦友和ー山口百恵という時代の寵児とも言うべきカップルが放つオーラから離れたからこそ見えてくるなにか。その魅力は、もしかしたらフィルムという存在の物質性に依存しているのかもしれない。

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