ジェラルド・カーグル監督「アングスト/不安」

去年、映画好きの間で噂になった映画「アングスト/不安」をレンタル。Twitter上では、「異常な作品」、「呪われた傑作」というコメントで結構盛り上がっていた。公式サイトも、「1983年公開当時、本国オーストリアは1週間で上映打ち切り、他のヨーロッパ全土は上映禁止、イギリスとドイツではビデオも発売禁止」と扇情的に紹介。さらに、監督のジェラルド・カーグルは、「これが唯一の監督作。殺人鬼の心理を探るという崇高な野心のもと全額自費で製作、全財産を失った。」と意味深な書き方をして、人びとの関心を煽った。

でも、実際は、この映画は世界中20カ国以上に配給され、ビデオ販売もされている。日本でも88年に「鮮血と絶叫のメロディ 引き裂かれた夜」というタイトルでレンタル用ビデオがリリースされている。大体、ギャスパー・ノエがこの映画にオマージュを捧げていることからも分かるように、多くの人たちがこの映画を既に観ているのだ。決してお蔵になっていたわけではない。それに、監督のジェラルド・カーグルも、この映画以外に20本以上のドキュメンタリー映画や教育映画を監督・製作している。そもそも彼は、オーストリアで映画祭を組織し、映画雑誌を創設したまっとうな映画人である。確かに商業映画としてはこの一本しか監督していないけれど、だからと言って呪われた監督という訳ではない。

たぶん、この映画があれだけ話題を呼んだのは、新型コロナウィルス感染拡大の不安心理とか、外出自粛で映画界も新作配給が極端に減って他に見るものがなかったことによるのだろう。「アングスト/不安」公開の意味があるとすれば、それはこの「呪われた作品」が一般公開されたことにあると言うよりも、むしろそうした日本映画界を巡る特異な状況が不思議なヒットを生み出したことにあると思う。まあ、見方を変えれば、そういう特異な状況をうまく活用したプロモーション戦略が勝利した好事例だとも言えるけれど。。。

映画は、実在の殺人鬼ヴェルナー・クニーセクが1980年1月に起こした一家惨殺事件を描いている。クニーセクは、私生児として生まれ、幼少期から犯罪を繰り返した問題児。16歳の時に母親をナイフでめった刺しして捕縛される。その後も何度か強盗でつかまった末、1973年に老女を突然、銃で撃って再び刑務所に収容。8年半の刑期が終了する直前、就職先を探すために3日間仮釈放された際、ある住宅に侵入し、そこに住む55歳の母親、26歳の車椅子に乗った障害を持つ息子、そして24歳の娘を殺害した。動機は、「殺人に対する純粋な欲望」だった。映画は、その事件の全貌を追っていく。

1980年代以降、現代に至るまでの、様々なシリアル・キラーものやスプラッタ映画を観てきた観客の目から見ると、この映画の殺人描写はごく抑制されている。鮮血は飛び散るが、別に内蔵が飛び出したり眼がえぐり出されるわけではない。その点では、今どきのB級映画の方がよほどえげつない。だから、残酷描写やショッキングな描写を期待してこの映画を観たら、多分、拍子抜けするだろう。

ただ、カメラワークと演出は、今から見ても強烈である。

基本的に、この映画では、人物のサイズを固定したままで移動を追いかけるショットが延々と続く。刑務所から出所する時も、道を歩いている時も、バスト・ショットや全身ショットが始まると、そのサイズが固定されたままで主人公K.がどんどん移動していくのをカメラがそのまま追いかけていく。人のサイズは変わらないのに、ただ背後の風景だけが流れていく。その独特の感覚が不安感をかき立てる。さらにそこに殺人鬼のグロテスクで暗い欲望に満ちたモノローグが重なる。K.を演ずるアーウィン・レダーの鬼気迫る演技と相まって、エモーショナルな映像となっている。

よく、映画技法は、観客をいかに登場人物に感情移入させ一体化させるかにあると言われる。そのために、映画は周到に状況説明ショットからアップや主観ショットへの移行を設計して観客を登場人物に一体化するよう誘導する。この映画の場合、冒頭でK.がいかにサイコパスになったかという説明が過去の写真アルバムを次々と提示される形でなされた後、観客はいきなりK.のアップやバストなどのショットに対峙させられることになる。この技法は新鮮だ。いわば、観客は、自分が望まないのに殺人鬼に自己を無理矢理に投影させられ、殺人鬼のモノローグで語られる殺人への欲望を聞かされながら、殺人現場に引きずり込まれるのである。タイトルの「アングスト/不安」というのは、決してK.の不安ではない。K.は確信犯的に殺人を遂行する。そこに不安やためらいはない。不安なのは、自ら望まないのにその殺人に自己同一化させられてしまう観客の方である。そこに、この映画の斬新さがある。

結局、この映画のショットは、ごく短い状況説明ショットを除けば、ほとんどがK.のバストまたはウェストのショットと、K.の欲望に満ちた主観ショットだけで占められる。しかも、主観ショットに映し出されるのは、ダイナーにたむろするミニスカートの娘の尻や太もも、あるいは犠牲者の怯えた顔や必死に逃げようとする姿だけである。こうなるとほとんどポルノグラフィと言っても良いかもしれない。ポルノグラフィの猥褻さを決めるのは、カメラの前に裸や局部が映し出されるかどうかにあるのではない。カメラの主体の視線が、日常生活では隠蔽されている欲望を具体化するかどうかで決まる。「アングスト/不安」は、日常生活では決して許容されない殺人者の欲望に満ちた主観ショットに観客を無理矢理巻き込むことで、圧倒的な強度を持ったポルノグラフィの世界を創り出してしまった。

この映画が公開された時に、観客の多くが不快感を示し、多くの国で公開禁止となったのは、そこに映し出された殺人場面の残虐さではなく、主観ショットとK.のバスト・ショットだけの世界で無理矢理に殺人者の欲望に巻き込まれた観客の激しい心理的抵抗によるものだろう。その意味で、確かにこの映画は、映画が巧妙に隠蔽してきた演出技法のある一線を越えてしまったのかもしれない。

ということを考えることができた点では面白い映画だったけど、もう一回見たいかというと僕は遠慮したいです。多分、映画の技法としても、主観ショットとバストショット一本槍で延々殺人者の心理に同一化させるというだけでは単調すぎる。いわば、一発芸。それにもう一回付き合う気にはならないというのが正直な感想でした。

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