ジョージ・シャーマン監督「100万ドルの血斗」
BSシネマの「100万ドルの血斗」。ジョージ・シャーマン監督の1971年の作品。主演は、ジョン・ウェイン、モーリン・オハラ、リチャード・ブーン。ジョン・ウェイン一家総出演。ジョージ・シャーマンは、日本ではあまり知られていないけれど、1937年の初監督作品から1971年の本作まで、低予算西部劇を黙々と監督し続けた職人監督。リパブリック、コロンビア、ユニバーサルと渡り歩き、1950年代以降はフリーランスとして活動したようである。西部劇関連でいくつかの賞を受賞している。
物語の舞台は1909年のテキサス。大牧場に盗賊が押し入り、雇い人を殺害した上に、牧場主の孫を誘拐して国境を越えメキシコに逃走し、身代金として100万ドルを要求してくる。実は、牧場主のジェイコブ・マッキャンドルズ(ジョン・ウェイン)は妻子を置いて放浪の生活を送っていたが、妻のマーサ(モーリン・オハラ)からの連絡で牧場に戻ってくる。マーサは、身代金と追跡の用意を整えて彼を待ち受けていた。二人の息子と相棒のネイティブ・アメリカンのサム、そして愛犬(ジョン・ウェインはぶっきらぼうにDogと呼ぶだけだが、命をかけて飼い主を守る忠犬である)を率い、100万ドルの身代金が入った箱を携えて盗賊団を追う。そこに、身代金強奪を狙う別の悪党も絡み、メキシコで死闘が繰り広げられる。。。
1971年と言えば、既にジョン・ウェインは60歳を超えている。モーリン・オハラも50代。確かに孫がいてもおかしくない年齢である。映画でも、この老いが一つのテーマとなる。ジョン・ウェインは老眼鏡が欠かせず、視力が弱っているので散弾銃に頼らざるを得ない。相棒のサムも同様である。でも、二人は西部で生き抜いてきた男の誇りを崩さない。息子がパパ(Daddy)なんて恥ずかしい呼び名で呼びかけたら躊躇なく馬から引きずり下ろして泥の中に叩き込む。
2人の息子たちと共に敵を追うという枠組みは、2年後に主演した「ビッグケーヒル」でも使われている。年老いたガンマンが老体に鞭打って西部の荒野を横断し、子供たちに西部の男の生き様とサバイバルの方法を伝えるという物語は、ジョン・ウェインにとっても気持ちよく演じることができる役柄だったのかもしれない。
この映画の魅力は、ただひたすら、ジョン・ウェインという西部劇の権化のような人が、ジョン・フォードやハワード・ホークスやヘンリー・ハサウェイなどの監督たちと作り上げてきた西部の男というキャラクターを丁寧に反復しているところにある。女性に対してうまく立ち回れない無骨な男。ケンカっ早く、口よりも先に拳が出てしまうガンマン。でも、そうした役柄をパロディとして楽しむ余裕も見せてくれる。例えば、酒場での喧嘩。ひと騒ぎを起こすためにわざと街で一番ケンカっ早い大男を挑発したのは良いが、相手の方が圧倒的に強く、あっさりとぶちのめされてしまう。殴り返してもまったく意に介さない相手を前に、ジョン・ウェインが早々に退散する場面が妙におかしい。
それだけではない。この映画には、古き良き西部劇の時代の終焉を感じさせるアイテムがそこかしこに配されている。映画の冒頭から、ナレーション付きで20世紀初頭のニューヨークやワシントンの洗練した文化と西部のあらくれた文化が写真入りで対比される。そう、ニューヨークでオペラやバレーが公演されていた頃、西部ではまだガンマンが死闘を繰り返していたのだ。こういう時代を相対化する視点を西部劇の最初に持ってくるところは新鮮である。
これに加えて、モダンを感じさせる様々なアイテム。ジョン・ウェインたち一行に先行して盗賊団を追う保安官の一行は馬車ではなく車に分乗して出発するし、息子はバイクで荒野を駆け抜けていく。谷間に待ち伏せした盗賊団と保安官の一行が銃撃戦を繰り広げている中を狂ったようにバイクが駆け抜ける姿は、西部劇というジャンルを無効にするようなおかしさがあった。彼が持ち込んだ連装式の拳銃が暴発して、周りの人間が川に飛び込んで身を守る姿も、不思議なユーモアを感じさせる。さらに、決闘の街は、石油ブームに沸き、油井の塔がそこかしこに建てられた場所である。時代は、確実に変化しつつあった。
しかし、もちろん、最後の決闘シーンでは、暗闇の中、正統的な銃撃戦が展開される。4人と1匹対7名という圧倒的な不利な状況の中で、ジョン・ウェイン一行はどのように戦うのか。敵を一人一人倒していく細部は西部劇の醍醐味を感じさせる。
西部劇の時代が終わりを告げ、既に過去の存在となりつつあることをきちんと受け止めながらも、自分が動ける限りはこのジャンルを終わらせまい。この作品は、ジョン・ウェイン一家と職人監督の断固たる決意を感じさせる。たまにはこういう作品も悪くない。