大林宣彦監督の「最後の講義」
大林宣彦監督が亡くなってから、追悼番組が続いている。14日は、BS日テレで「シネアスト4〜記録対談!大林宣彦監督が語る映画の神髄〜」を見る。安藤桃子が大林監督と対談し、ナレーションは常盤貴子。
僕の記憶の中の大林監督は80年代で止まっているので、あの巨体がこんなに小さくなり、穏やかな微笑みを浮かべて歴史や記憶について静かに語る姿に変わっていることに驚く。その語り口はまるで東洋の老哲人のよう。安藤桃子の作品を褒め、的確に作品の魅力を掬い出し、そして自作が持つメッセージについて語る。一つ一つの言葉が明確で、借り物でない自分の言葉になっている。情報でも批評でも分析でもない、生身の人間の生身の思考から紡ぎ出された言葉。その言葉の背景に広がる深い歴史の記憶、体験、洞察。言葉一つ一つが、大林監督の思索と体験と表現の重みに裏打ちされていて、ストレートに僕の心の中に入ってくる。言葉の価値がどんどん失われ、浮遊していく時代に、こんな言葉に出会えること自体が奇跡のような経験だった。
これに触発されて、今日はNHKのBSで「最後の講義〜未来に託すメッセージ〜 映画作家・大林宣彦」を見る。2年前の2018年3月に放映された番組。早稲田大学大隈講堂で、学生たちを前に最後の講義として3時間にわたり語ったもの。この時点で、すでに大林監督は肺がんのステージ4で余命3ヶ月と言われながら、1年半にわたって「花筐」を撮影していた。その姿には、死を前にした悲壮感など微塵もなく、語り口はあくまで穏やかで、時に自分のガン細胞そのものまでユーモラスに取り上げながら、淡々と静かに映画について、歴史について、生きることについて語っていく。
大林監督作品における「記憶」というテーマが、彼の戦争体験、特に敗戦時の母親の思い出、その後の大人たちの豹変ぶりに対する不信感、そして死んでいった人々の思い出に通底しているなんて考えもしなかった。そうか、「さびしんぼう」の彼女は、記憶の中でしか生きることができない死者だったのか。。。自分がいかに貧困な想像力で映画を観てきたかを思い知って愕然とする。
それにしても、大林監督の言葉は深く、詩的でありながらメッセージ性がある。「君たちは、今、戦前を生きているのだ。」「表現者を選んだ以上、プラカードを掲げてはならない。」「映画を作るとはフィロソフィーである。」「花筐は、シネマ・ゲルニカなんです。」「うそから出たまこと。表現は嘘だからこそ、まことを生み出すことができるのです。」・・・・。一つ一つの言葉にあらためて共鳴する。
でも、できればもっと彼の映像に対する思いや思索について知りたい。。。それが、言葉以上に彼の思想を語っていると思うから。