ジョン・フォード監督「太陽は光り輝く」

BSで録画したままにしていたジョン・フォード監督の「太陽は光り輝く」を観る。すごい。ただただその世界に没入する。個人的には、「駅馬車」「怒りの葡萄」「タバコ・ロード」「馬上の二人」「我が谷は緑なりき」並みの感動作。こんな凄い作品を知らずに映画を語っていたなんて。。。とただただ恥じ入る。

「太陽は光り輝く」は1953年の作品。監督自身が製作にも入っているので、自分の好きなように撮影できたのだろう。予算的には制約があったかもしれないけれど、セットも撮影も演技もすべてが完成されている。

「太陽は光り輝く」は、1934年に公開された「プリースト判事」の続編にあたる作品である。映画の舞台は、ケンタッキーの小さな町フェアフィールド郡。プリースト判事は、そこで黒人の家政婦と付き人とともに暮らすやもめの男である。前作の「プリースト判事」から約20年が経過し、彼はすでに老境に差し掛かっている。判事を務めて長いが、次の選挙で再選されるかどうかは分からない。北部出身のライバルは、資金力をバックに大規模な選挙キャンペーンを展開し、派手なパーティーも開催して人々の心を掴んでいる。

そんな中、プリースト判事は、敗北した南軍の将兵としての矜持を保ちながら、日々、判事の職を務めている。訳あって他の南軍退役兵たちと共にかつて仕えた将軍の孫娘の面倒をみ、裁判では街の人々に忌み嫌われている娼館の女将に寄り添い、さらに冤罪でリンチに遭いかけた黒人少年を身体を張って守る。その合間に、勝ち目がなさそうな選挙のために自身の名刺を配って回る。「もう一度、心臓にエンジンをかけにゃならん」と口癖のように繰り返しては、黒人の付き人に言いつけて酒を持ってこさせて煽る日々である。

この映画の素晴らしさは、そんな小さな街の淡々とした日常を描きながら、そこにまぎれもない活劇がみなぎっていることである。ほとんどミュージカルといってもいいぐらいに、画面に音楽とアクションが満ちている。例えば、とある裁判の場面。ある黒人が「甥が言うことを聞かないで遊んでばかりいるのでなんとかして欲しい」と裁判所を訪れる。プリースト判事が、詳細を尋ねると、その甥はバンジョーの名手で日がな一日歌って暮らしていることがわかる。どれだけうまいか見せてみろとプリースト判事が話しかけると、まだ年若い甥っ子はいきなり南軍の軍歌を奏で始める。かつてラッパ手だったプリースト判事は、思わずつられてラッパを取り出し、裁判所の中で二人のセッションが始まる。さらにその音楽を聞きつけて街から昔の南郡の仲間たちが裁判所に駆けつけて・・・・。

こんな風にアクションと音楽が一体となって物語が進行していくのがこの映画の魅力の一つである。と同時に、とても逆説的だけど、この映画には全編にわたって、とても大切なものが失われつつあるという喪失感に満ちている。その大切なものとは、南部の人々の親密な暮らしであり、昔堅気の正義と信義を重んじる心情であり、黒人や娼婦などの社会から排斥される人たちを暖かく受け入れる包容力である。プリースト判事は、「こんなことをやったら選挙に負けてしまう」とぼやきながら、こうした大切なものを守るためにひたすら奔走する。その姿がとても愛おしい。

圧巻は、映画の最後。将軍の娘が死の間際に街に戻ってきて娼館に身を寄せる。彼女は、父である将軍から決して許されないと分かっていても、娘の顔を一目見るために病を押して戻ってきたのである。プリースト判事は、彼女を娘に引き合わせて、全てを娘に伝える。そして、彼女の葬儀を行うことを決意する。それは、判事選挙の当日であり、娼館に身を寄せた女の葬儀などを行えば、街の婦人たちから総スカンを喰らうことは目に見えている。保守的な街の教会は、彼女の葬儀を引き受けることすらしない。

しかし、プリースト判事は、娼館の女将と娼婦たちとともに、盛大な葬儀を行う。豪華な棺を馬車に乗せ、街を回っていく。教会から葬儀を拒否されたので、目指すのは黒人の子供たちの教育のために作られた小学校である。折しも、選挙当日とあって、ライバル候補は楽隊を連ねて盛大に最後のキャンペーンを行なっている。そのそばを通り過ぎる葬列。しかし、その列に一人、また一人と街の人々が加わっていく。将軍の孫娘、南軍の昔の仲間たち、昔馴染みの街の婦人連中・・・。今まで、孫娘を認めず、ほとんど自宅から外出せずに自邸に引きこもっていた将軍は、正装してその葬列に敬意を表し、ついに小学校での葬儀に現れる。時代は確実に変わりつつあり、人々の心も古き良き時代の懐かしい世界から離れつつある中で、プリースト判事と娼婦の葬列が、一瞬、時代の流れを反転させ、人々の気持ちを束の間一つにさせる奇跡的な瞬間がそこに描かれている。

プリースト判事は、司祭が葬儀を引き受けなかったために、小学校の教室を葬儀場にして別れの説教をする。にわか司祭が語るのは、キリストが石打刑を宣告された娼婦に寄り添って語った「今まで一度も罪を犯したことのない者だけが、この女に石を投げなさい」と言う言葉。その朴訥な説教が人々の心を打つ。

映画は、最後、ハッピィー・エンドで幕を閉じる。しかし、その結末にもかかわらず、この映画では、何かが確実に失われていると言う確かな手応えが感じられる。それが、なぜこれだけのリアリティを持っているのか、正直、今の僕には言語化できない。ただ、この映画に流れていく時間の持続と、そこに映し出される一つ一つの場面の手触りが喪失を語っているとしか言いようがない。そんな魔法のようなことができてしまうのが映画の秘密なんだろう。

まだまだこの映画には、魅力的な細部が満ち溢れている。例えば、ゆっくりと街に近づいてくる蒸気船の滑らかな動き。あるいは、暴走する馬車を止めるべく街のストリートを駆け抜ける人馬の躍動感。南部の退役将校たちの突然の軍歌斉唱。保守的な街の晩餐会で整然と繰り広げられるダンス・パーティー・・・・。すべてが映画的な活力に満ちていながら、同時に喪失感を感じさせると言う不思議な映画体験をぜひ皆さんも味わって欲しい。

蛇足です。なんと、YouTubeでは、全編を無料で見ることができるんですね。版権が切れていると言うことか。。。字幕なしだけど、これは本当におすすめです。

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