「神田日勝回顧展:大地への筆触」@東京ステーションギャラリー

東京ステーションギャラリーで「神田日勝:大地への筆触」展を見る。去年から楽しみにしていた展覧会。新型コロナウィルスの感染拡大で東京での会期が大幅に短縮され、もしかしたら見ることができないのではないかと真剣に心配したけれど、緊急事態宣言が解除され、なんとか会期末直前に駆け込むことができた。

神田日勝はNHK朝ドラの「なつぞら」の山田天陽のモデルとして一般に知られるようになった。1937年に東京の練馬で生まれたが、空襲で家を焼かれ、やむを得ず一家は1945年、日勝が8歳の時に北海道に移住する。移住先は帯広の鹿追。彼らの前に移住していた一家があまりの自然の過酷さに入植を放棄したほどの荒れ果てた土地だった。そんな中、3つ違いの兄の一明は東京芸術大学油絵科で学び、その後、画家として北海道を拠点に活躍する。弟の日勝も画才に恵まれたが、中学卒業と同時に16歳で家業を継いで北海道の入植農民として農業に従事。通信教育で酪農高校で学びながら、ほぼ独学で絵画制作を開始する。農業を営み、地元の青年団の活動に積極的に参加して青年団長を務めるかたわらで制作を続け、全道展や独立展に出品して入選を繰り返し、徐々に画家としての名声を高めていくが、過労がたたり、32歳で腎盂炎による敗血症で亡くなった。

しかし、短い生涯の間に残した作品が人々の目にとまり、農民画家として知られるようになる。また、日勝を偲ぶ人たちの粘り強い運動により、1993年には鹿追に神田日勝記念美術館が開設される。僕は、10数年前にこの美術館を訪れて彼の作品の迫力に打ちのめされた。表現の重みについて考えるようになったのは、多分、彼の作品に出会ってからだと思う。

今回の展覧会は、神田日勝没後50周年を機に彼の画業を振り返る回顧展。主要作品を見ることができるだけでなく、彼が影響を受けた曹良奎や北川民次の作品も展示されていて、より日勝の作品の理解が深まる構成になっている。

展覧会を回る。初期の習作を経て、1956年の「痩馬」と「馬」の前で釘付けになる。神田家が十勝に移住して間もなく、馬喰にだまされて購入した老馬を描いた作品である。農耕馬として購入したが、購入後まもなく死亡したとの解説がある。その浮き上がった肋骨が痛々しい。静かに草を食む姿をくすんだ色調とマッスの形態で描いた作品だが、日勝がその後繰り返し描き続ける馬の絵の原型がここにある。農民にとって、馬は労働に欠くことのできない生活の糧であり、同時に労働の友だった。日勝が描く馬には、それがたとえ死んでしまった馬でも、だまされて購入した老馬でも、どこか暖かく敬意を持ったまなざしを感じる。それが、彼の絵画の通奏低音をなしている。

続いて、1962年から65年にわたって描かれた「人」「飯場の風景」の前で立ち止まる。くすんだ色調の荒々しいタッチの壁面をバックにこちらを見つめる素朴な男達の顔。あるいは粗末なストーブで暖をとりながらつかの間の休息のために横たわる男達。壁を背景にしても、部屋の中にいても、背景は極めて平面的で、人と壁が一体化してしまったような錯覚を覚える。画面全体が、人も壁も同じ色調で統一されているためにその印象がさらに強まる。労働者特有の無骨な身体、強調された足や手、首が過酷な肉体労働に耐えてきた男達の生活を感じさせる。ふと、中国の現代画家方力鈞の絵を思い出す。方力鈞の絵画は、明るい色調でポップなたたずまいを見せていてその表現手法は異なるけれど、その農民らしいゴツゴツした身体の感じに共通性を感じる。

そしてようやく、65年以降の「馬」シリーズと「牛」に到達する。共に、神田日勝ならではの、写実性と幻想性を感じさせる作品。カタログによると、日勝はペインティングナイフで一本一本毛並みを描いていったとのこと。その膨大な作業がもたらす圧倒的な写実性に心を奪われる。黒い光沢を帯びた毛で全身を覆われた寒冷地の馬が、ただ馬小屋に佇んでいる。馬小屋には空き瓶やドラム缶などが乱雑に放置されていてお世辞にもきれいな場所とは言えないけれど、そこで休んでいる馬たちの表情は穏やかで、聖性すら感じさせる。画家の馬に対する思いが伝わってくるような名作である。特に、亡くなった馬を描いた「死馬」が美しい。まるでシャガールの作品に登場する幻想の馬のような優しさと郷愁と高貴さをたたえつつ、その姿はあくまでもリアルである。久しぶりに見直してもやはり感動する。

日勝は、その後、色彩に挑戦するようになる。それまでのくすんだ色調と打って変わった鮮やかな色彩で「画室」を描き、自ら座り込んでいる姿を描いた「室内風景」を描き、当時、日本で流行していたアンフォルメルに触発された荒々しいタッチの「人と牛」や「人間」などのシリーズを手がける。彼がどういう意図でこうしたカラー作品を描いたかは分からない。ただ、見ている僕は少し辛かった。死馬までのくすんだ色調の作品群は圧倒的な迫力があり、神田日勝のオリジナリティを十分に感じさせる傑作だった。これに対し、鮮やかな色彩を使った作品は、アンフォルメルやポップアートなど、当時の海外アートの最先端の流行を取り入れているけれど、どこか表層的な印象がある。

30歳となり、画家としても評価されつつある中で、農民画家からプロの画家になるためにこういう作品を描かなければならないと焦っていたのだろうか。そうであれば、不幸なことだと思う。中央の画壇で認められるために海外の最新流行の手法を導入しても、所詮はただのまねごとに過ぎない。彼のような才能を持った画家であれば、そんな必要は全くなかったはずなのだ。

結局、彼は32歳でその短い生涯を終える。救いなのは、絶筆・未完となった「馬」で、再び、神田日勝が初期のくすんだ色調に回帰しようとしたことである。しかし、それはただの回帰ではない。この未完の作品を実際に目で見ると、これまで日勝が描いてきた「馬」シリーズとは明らかに異なる特徴が分かる。それは、たとえば馬の目である。初期の作品が、限りない優しさをたたえていたとすれば、遺作の馬の目は、どこか超自然の趣をたたえている。その目は、もしかしたら聖書の黙示録に登場する馬たちのような、ある種の厳しさと神聖さをたたえているかのようだ。馬の毛並みにも表現の深化が感じられる。よく見ると、馬の毛の下に赤や茶色が塗り込められており、その結果、毛の光沢に深みが増しているのだ。良い表現が思い浮かばないけれど、馬の毛の黒さが沈んだ色であるにもかかわらず輝きを増しているように見える。神田日勝は、色彩の実験を経ることで、自身のテーマを確実に掘り下げていたのだろう。歴史にIfはないとよく言われるが、もしも彼が早逝せずにそのまま画業を続けていれば、日本の洋画壇にどのようなインパクトを与えただろうか。そう思うと、早すぎた死が無念でならない。

彼の展覧会を見ながら、改めて、なぜ人は表現に向かうのだろうかと考える。神田日勝のように、北海道入植農民として過酷な肉体労働を強いられながらも、何かに取り憑かれたように絵を描き続ける人生など、軟弱な僕には想像すらできない。ただ、そのような人が、この日本にかつて存在し、半世紀を経てその作品と僕が対峙しているという事実には厳粛な思いを感じる。多分、神田日勝のような才能を持った人は、自ら望んでいるというよりも、何かに促されるようにある種の切迫感のなかで表現活動を続け、そのために短い生を燃焼してしまうのかもしれない。

近代的主体の自己表現としての芸術ではなく、ある種の生の衝動に促されるように表現を余儀なくされてしまう芸術。近代日本には、高島野十郎、松本竣介、田中一村、村山槐多、関根正二、長谷川利行など、夭折したり、生涯認められず死後に再評価された画家達が数多く存在する。僕はどうも、そうした画家達に心惹かれてしまうようだ。もちろん、神田日勝もその一人である。

最後に、彼の文章を紹介しておきたい。神田日勝という人が抱え込んでいたものが伝わってくる良い文章だと思う。

利潤の追求と合理主義の徹底という現代社会の流れのなかで人間が真に主体性のある生き方をすることは、きわめてむずかしい時代になってきた

いまや人間の存在理由は、個々の内部にはなく巨大な社会のメカニズムを構成する一兵卒として、好むと好まざるにかかわらず、不安やあせりを内包したまま、無表情に一定のイズムに向かって押し流されてゆく。

(中略)そして自分がまぎれもなく、その悲しい群衆のなかのひとりであることを認識するとき、たまらない無力感に陥る。われわれの創意活動は真の人間復活をめざした。現状況へのささやかな抵抗かも知れない。(中略)あの白いキャンパスは己の心の内側をのぞきこむ場所であり、己の卑小さを気づき絶望にうちひしがれる場所でもあるのだ。だから私にとってキャンパスは、絶望的に広く、無気味なまでに深い不思議な空間に思えてならない。

私はこの不思議な空間を通して、社会の実態を見つめ、人間の本質を考え、己の俗悪さを分析してゆきたい。

己の卑小さをトコトン知るところから、われわれの創造行為は出発するのだ。

あの真っ白なキャンパスの上にたしかな生命の痕跡を残したい。

「わたしの秀作⑩」北海タイムズ 1969年6月18日

結局、どう云う作品が生まれるかは、どう云う生きかたをするかにかかっている。どう生きるか、の指針を描くことを通して模索したい。

どう生きるか、と、どう描くかの終わりのない思考のいたちごっこが私の生活の骨組みなのだ。

機械文明のあおりを受けて人々が既製品的生活を強いられるなかで、クリエイティブな我々の仕事は既製品的人生へのささやかな反逆かも知れない。

25周年記念全道展帯広巡回展「出品者のひとこと」 1970年7月

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