庵野秀明監督「新世紀エヴァンゲリオン」(テレビ放映版)

新世紀エヴァンゲリオンのテレビ再放送を見終えた。もともとは1995年から96年にかけてテレビ東京で放映された作品。その頃、僕は海外勤務中だったので、エヴァンゲリオンの情報は全く知らなかった。ただ、海外勤務から帰国してアニメ好きの友人と飲んでいる時に、彼がエヴァンゲリオンの世界観がいかに素晴らしいかを滔々と語っていたのを不思議な気持ちで聞いていたことを覚えている。いい年をした大人をここまで饒舌にさせるものは何だろうかと、正直困惑してしまった記憶が鮮明に残っている。

どうやら僕がいない間に、日本では、エヴァンゲリオンが社会現象となり、その結末を巡って大塚英志、東浩紀、上野俊哉などの批評家が賛否両論を戦わせ、オタク雑誌が何度もエヴァンゲリオンの謎解きに挑戦し、さらにコミケの同人誌からパチスロのキャラまで、あらゆるところで零や飛鳥のイメージが氾濫していたらしい。庵野秀明という男がそれを仕掛けたらしい、ということは分かったけど、その時は、特に僕はそれ以上の関心を持たなかった。その後、庵野監督の実写映画「キューティー・ハニー」も見たけれど、佐藤江梨子が予想以上にパワフルな役者で、倖田來未のボーカルはすごいな、と言うぐらいしか印象は残っていない。

庵野秀明に関心を持ったのは、それから10数年が経過し、彼の「シン・ゴジラ」を見たからだ。別にこの映画に感動したわけではない。ただ、僕の周りの「いい大人」達が、何やら妙なアドレナリンを出しながら「シン・ゴジラ」についてやたら語るのに付き合い、もしかして、この状況がエヴァンゲリオン公開当時に起こっていたのかも。。。と気づいて、気になったのである。「シン・ゴジラ」は悪い映画ではないし、ある意味で日本が生んだゴジラ・シリーズをきちんと復活させてくれて感謝したいぐらいの作品である。でも、所詮はオタクが作った特撮映画で、ストーリーも演出も穴だらけなのに、なぜ「いい大人」達が反応してしまったのか。それが少し気になったので、今回のエヴァ再放送を見直す気になった。

で、感想である。正直、僕は一回り上の世代の大塚さんに深く同意する。この結末はないだろう。。。まさに「自己実現セミナー」じゃない。しかも、世界観が深いとか伏線が張り巡らされているとかオタクが騒いでるけど、所詮は死海文書とかゼーレの計画とか使徒とか、手垢のまみれたコンスピラシー・セオリー(陰謀論)ものを数冊読めば書けてしまう物語でしかない。世界観としては悪くないと思うし、エヴァが実は人間が作った使徒のコピーで魂を入れることで真の存在に至ると言う発想は面白いし、最初ロボットものだと思っていたら実はエヴァは有機体で使徒を食らう存在だったという展開も面白さを感じた。ここまで材料を揃えたんだから、もっと面白い物語を作れよ・・・と大塚さんが言うことには深く共感する。そりゃ、物語の専門家である大塚大先生から見たら、こんな穴だらけのストーリー許せないよね。

さらに許せないのが、この穴を埋めるために、「見捨てられた孤児達の自分探しゲーム」をひたすら繰り返すところ。正直、見ていてイライラしました。自分探しゲームって、もちろん90年代の日本では流行ってました。それは認めるけど、鴻上尚史でさえ、もう少し洗練された形で提示していたと思う。こんなベタにみんな見捨てられた孤児で、父親か母親かにトラウマを持っていて、それを克服するために自己承認を求めている話なんて、同人誌ならともかく、よく商業アニメでやるよな・・・というのが率直な感想です。

ただ、とは言え、この作品が90年代の日本にある種の心理的動揺をもたらしたことは紛れもない事実のようです。これをどう考えれば良いでしょうか。

もしかしたら、既にどこかで誰かが言っているかも知れないけれど(すみません、エヴァ程度の作品でこれをチェックするための文献リサーチするほどの気力がありませんでした。。)、僕が感じたのは、庵野秀明という人は、その時代が抱えるトラウマをうまく救い出すという希有の才能を持った監督ではないかと言うことです。90年代は、確かに自分探しゲームが流行りました。今から考えれば、バブルが弾けたロスジェネが他に選択肢がなくて就業していた不安定な非正規労働に過ぎない「フリーター」を、マスコミがいかにも自由で自分らしい生きかただと顕彰し、その言葉にロスジェネ自身が乗ってしまった時代。彼らが抱えていた不安感はまさに承認欲求だったわけです。さらに95年は、阪神淡路大震災があり、オウム真理教による地下鉄サリン事件があり、世は世紀末で改めてノストラダムスの大予言が取り沙汰され、日本は行き場のない世紀末の閉塞感に覆われていました。

その不安感をうまく掬い上げる装置が、エヴァに描かれたセカンド・インパクト後の終末感あふれる世界であり、ゼーレの陰謀による新たな破局の予感であり、そして承認欲求を抱えながら生死をかけた戦いにかり出される14歳の子供たちだったわけですね。庵野秀明のすごさは、これをある種、生理的な不快感に直結させて提示できるところ。エヴァに登場する子供たちは、胎児のように液体に満たされたコックピットに収納されます。この窒息するような圧迫感と、同時に子宮にいるような安心感。これを映像で見せられると確かに人は無意識の生理的レベルで反応してしまいますよね。こういう空間を造形できるところが庵野監督のすごさだと思います。

そして、こうした情動を強化させる様々な小道具。エヴァはコミケ系の同人誌で無数にパロディ化されていきましたが、そのほとんどはエロ漫画でした。確かに、エヴァはテレビ放映するにはギリギリの性的表現に満ちた作品です。成人男女のベッドシーンも出てきますし、それほど露骨ではないにせよ、女性の身体のラインをここまで扇情的に描いたテレビアニメは、おそらくそれまではなかったでしょう。別に、僕はそれに目くじらを立てるつもりはないけれど、こうしたエロティックな映像表現は、強烈な暴力場面と世界の破滅という不安に満ちた世界観の中で、見る人の情動に強く働きかけることは言うまでもありません。

大塚さんが、エヴァを「自己実現セミナー」と断定したことは、そういう意味でも正しいと思います。新興宗教にせよ、自己実現セミナーにせよ、ターゲットへの最初のアプローチは、よく考えてみれば誰でも抱えている不安感を、あたかもターゲットだけが抱え込んでしまった不幸だと思い込ませ、その不安が実は社会の陰謀によって作り出されたものであり、自分たちだけがそれを解決できるソリューションをもっていると提示するところにあります。これにのってしまったら最後、ソリューションは延々と先延ばしされ、謎は解決されるのではなく次から次へと新たな謎と試練が提示され、それを解決してステージを上がっていくために膨大なお金を払わされてしまいます。でも、ターゲットが逃げられないのは、性的魅力を持った異性に情動を喚起されながら、その欲望は決して満たされることがないという宙づりの状態に置かれ続けることですね(零は、まさにそういうチューターの役割を果たしているからあれだけ熱狂的に受け入れられたのでしょう。)。不安感も同じ。よく分からない状況で一方的に指示され、従うことでしか最終的な幸福は得られないという状況をすり込まれてしまったら逃げ場はなくなります。そして、最後は何のことはない、単にあなたはあなたのままで良いのですと承認されて終わりな訳です。この構造、ほとんどエヴァのストーリーと重なりますよね。

実は、庵野秀明は、「シン・ゴジラ」でも同じことをやっています。公開当時の日本は、失われた10年が失われた20年に変わり、低成長と閉塞感に満ちた時代でした。さらに2011年の東日本大震災の記憶がまだしっかりと人々の頭に残っており、もしも東海大地震や関東大震災が起きたら、日本は確実に破綻すると皆漠然とした不安感を抱えていました。さらに言えば、小泉政権以来の新自由主義的経済政策で、非正規労働者がどんどん増え、多くの若者が将来像をしっかりと描けずに日々、生活の不安におびえながら生きている時代でした。シン・ゴジラは、このような不安感にくさびを打ち込む映画だったわけです。

映画は、ストーリー的には、日本の機能しない政府をオタク達が団結して救うというハッピィー・エンドで終わりますが、もちろん問題は先送りされただけで、ゴジラは東京都のど真ん中に居座っていつ目覚めるか分からない状態にあります(大震災の暗喩)。それよりも、庵野秀明がうまいのは、例えば、幼生のゴジラが川を伝って侵入する場面。幼生ゴジラ自身は、ぬいぐるみのようなとぼけた造形なのですが、それが川を遡りながら巨大な身体で材木や廃棄物を押し流しながら進む場面は、だれでも東日本大震災の津波の場面を無意識に思い出すでしょう。こんな風に、サブリミナルな部分で映像を通じて観客の無意識の不安感に働きかける手法。これがまさに庵野秀明の演出術であり、だからこそ、普段は特撮映画なんて見ることなどあり得ない「大の大人」が「シン・ゴジラ」を見て熱弁を振るうほどの社会的反応をもたらしたのでしょう。つけ加えれば、戦後の日本が抱えたアメリカに対する屈折した感情の鬱憤を晴らさせるというサービスも加えることで、観客の心をつかむところも見事です。

こうしてみると、庵野秀明という才能は、クリエイターであったり、物語の語り手である以上に、コンテンツのマーケティング戦略に「自己実現セミナー」手法を大々的に取り入れたイノベーターとして歴史に残るのかも知れません。もちろん、僕はそんなマーケティング戦略に乗って「幸福」になりたいとは思いませんが。。。

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