
第二の謎は、「海からやってくる災厄」である。
映画の中で、王妃ペネロペやスパルタ王メネラオスは、繰り返し「海からやってくる災厄」のことを口にする。そして、オデュッセイアの王国イタケだけでなく、スパルタも他のギリシア諸国も、この海の災厄への備えを進めなければならないと語る。しかし、映画の中では、この災厄が具体化することはない。海からの敵は現れず、災害も起きなければ、怪物が襲来することもない。
結局、この「海からの災厄」は何だったのだろう。なぜこの「海からの災厄」が映画の中で複数の人物の口から語られなければならなかったのだろう。そもそも、この災厄が引き起こされたのはなぜなのか、オデュッセイアの物語とどのような関係があるのか。
オデュッセイアの語りから見えてくるもの
このことを考える上で手がかりとなるのは、映画の後半で帰還したオデュッセイアが、自身の身分を明かさないままに王妃ペネロペに語る話である。オデュッセイアは、自分のことをトロイア戦争に従軍した兵士だと偽った上で、戦争でのオデュッセイアの活躍について語る。しかし、その内容はペネロペが期待していた英雄の物語ではなく、むしろ戦争がもたらした悲惨な破壊と殺戮の物語だった。
映画の中でも描かれているとおり、オデュッセイアは巨大な木馬を浜辺に残した上で、全軍を引き上げさせる。一人残した兵士には、トロイ軍が来たらこれはトロイの神への献上品だと伝えるよう言い含めるが、実際はオデュッセイアと部下たちが木馬の中に潜んでいた。騙されたトロイ軍は、オデュッセイアの思惑通り、この木馬を城内に引き入れる。夜の闇をついて木馬から外に出たオデュッセイアは、激しい戦いの末に城門を開いて仲間の大軍を城内に導き、トロイの制圧を達成する。しかし、オデュッセイアが目にしたのは、栄光ある勝利とは裏腹の、殺戮と略奪の修羅場だった。
この物語を王妃ペネロペに語った後で、オデュッセイアは不思議なことを言う。彼はまるで独り言でも呟くように、トロイの木馬は人と人との掟を破り、トロイに破壊をもたらした。これは世界に災厄をもたらしたのだ。オデュッセイアは、この世界の秩序を破壊した・・・。と語り続ける。
トロイ戦争は、木馬を使って城内に忍び込むというオデュッセイアの知略によって勝利した戦いだった。この意味で、オデュッセイアは英雄として功績を誇って良いはずである。にもかかわらず、オデュッセイアがこの勝利が災厄をもたらしたというのはなぜか。これを考えるには、オデュッセイアという人間の信念に遡らなければならない。
「掟と約束」の人
オデュッセイアには不思議な習慣がある。彼は弓の名手であり、狩りの達人なのだが、獲物を前にして弓を射る前に、必ず弓を鳴らすのだ。当然のように、その音に気付いて獲物は警戒し、時によってはその場から逃げ出すだろう。オデュッセイアの従者たちは、なぜわざわざ弓を射る前にそれを知らせるかのように弓を鳴らすのかといぶかしむ。
これに対するオデュッセイアの回答は明確だ。彼にとって、狩りとは動物と人が、知力、精神力、体力を駆使して戦う場なのである。そこでは、正義と公正性が求められる。そして、狩りの結果は、人間ではなく、神が決めることである。だからこそ、オデュッセイアは、相手の隙を突いたり不意打ちをせず、弓を鳴らして狩りの開始を相手に告げ、狩人と獲物の間に正義と公正を確保する。その上で、狩りの結果を神に委ねること、これがオデュッセイアにとってのあるべき狩りの姿なのだ。このように、オデュッセイアは神の掟と約束を重んじる。
同じことは戦争にも当てはまる。戦争では、敵と味方が知力、体力、軍事力、精神力を尽くして戦う。ただし、そこには狩りと同様に正義と公正が求められるのであり、戦争の結果は、神の判断に委ねられる。これが戦争のあるべき姿である。
しかし、オデュッセイアは、トロイの木馬で敵を欺くことで、人と人との間の戦争の掟を破ってしまった。その結果、トロイは破壊され、人々は虐殺され、宝物は略奪された。この戦いは勝利かもしれないが、神が認めたものではなく、計略と偽りによって人がもたらしたものである。人と人との掟のみならず、神の掟もまた破られてしまった。世界の秩序が破壊され、混乱がもたらされたのである。
「海からやってくる災厄」の正体
このように見ていくと、「海からやってくる災厄」とはオデュッセイア自身だということがわかる。だから、本来、彼は故郷に帰還してはならない存在なのだ。彼の帰還は、王の帰還として歓迎され、王国に再び平和と秩序をもたらすのではなく、災厄の種をまく危険な存在となるだろう。もしかしたら、その災厄は彼の王国イタケだけでなく他のギリシャ諸国に波及していくかもしれない。
かくして、ノーランは、ホメーロスの原作を大胆に読み替える。
奸計によって人と人との掟を破り、世界の秩序を破壊して混乱をもたらしたものが、再び世界に秩序をもたらすために何をなすべきか。これが新たなオデュッセイアの主題となる。映画では、原作にないエピソードが幾つか追加されるが、それはまさにこの災厄を防ぐためにオデュッセイアがなすべき行動だったのである。
しかしそのことを考える前に、まだ幾つか解いておかなければならない謎がある。
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