映画「オデュッセイア」の謎(5)新たな物語

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映画版「オデュッセイア」には、原作にないエピソードが加えられている。

監督のクリストファー・ノーランは、これらを娯楽性や理解のためだけでなく、物語を深める意図も込めて追加した。これまで見てきたように、クリストファー・ノーランは、この映画を独自のオデュッセイアの物語として語り直そうとしている。そのためには、以下のエピソードを新たに付け加えることがどうしても必要だったのだ。

息子テレマコスを巡るエピソード

クリストファー・ノーランは新たなエピソードを追加した。それは息子テレマコスに関するものである。

クリストファー・ノーランは、原作に忠実に息子テレマコスと求婚者たちとの対立を描く。父を探す旅への出発も描写する。レマコスがトロイア戦争に従軍した将軍や王たちと出会い、父の消息を聞く。場面の相違はあるものの、概ね原作通りだ。

しかし、以下のテレマコスに関するエピソードは、ノーランが付け加えた独自のものだ。

付け加えられた2つの場面

一つは、テレマコスがイタケに戻った際に神殿に立ち寄る場面である。

故郷イタケに戻ったテレマコスは、旅の安全へのお礼と感謝の意を捧げるために神殿に立ち寄る。しかし、そこには求婚者たちが放った暗殺者が待ち構えていた。暗殺者たちは、武器を置き護衛も残して神殿の拝所に入ったテレマコスを襲撃する。この絶体絶命の危機を救うのが、乞食の姿に身をやつしたオデュッセイアである。オデュッセイアは、自分が父であることを名乗り出ないまま、暗殺者たちを殺害し、神殿に火を放った上で、混乱に乗じてテレマコスと共に脱出する。

もう一つは最後の求婚者たちとの戦いの場面におけるテレマコスの役割である。

原作では、テレマコスは父オデュッセイアと共に求婚者たちと戦い勝利したとされる。しかし、映画版では、テレマコスは戦いに参加しない。オデュッセイアは、テレマコスが戦いに参加しようとしてもそれを許さず、一人で戦い続ける。テレマコスに出来ることは、階上の兵器庫に侵入してそこに保管されていた兵器を階下の求婚者たちに投げ与えようとする男を阻止することぐらいだ。

なぜこの二つの場面が加えられたのか?

ノーラン監督は、なぜこの2つの場面を加えたのだろう。

2つの場面は、共に戦士として未熟なテレマコスを救う強力な父オデュッセイアを描いている点で、オデュッセイアの英雄性を際立たせているように見える。しかし、これまで見てきたように、この映画はアンチ英雄の物語である。オデュッセイアの戦闘能力を誇示する必要はない。

むしろこの2つの場面は、この映画の基本的な主題である「掟と約束」に関わっている。

これまで見てきたように、オデュッセイアは、掟と約束に最大級の価値を置く者として描かれてきた。しかし彼は、トロイの木馬という奸計を使ったために、自ら掟と約束を破ることになり、世界に災禍を引き起こしてしまう。この災禍を引き受けてしまったオデュッセイアには王位に復帰するという選択肢はあり得ず、息子に譲位するしか道はない。そのためには、息子テレマコスが正式の後継者となる資格を得る必要があるが、その前提として「掟を破らない」ことが求められる。

だからこそ、オデュッセイアは、神殿という聖なる場所での戦闘と敵の殺害、さらに神殿に火をつけるという掟破りの行為を自ら引き受けなければならなかった。もしも息子テレマコスがこれを行えば、暗殺者への反撃という理由があるにもかかわらず彼は神の掟に背いた者として追放されることになっただろう。

ゼウスの掟クセニア

同じことは、求婚者たちとの戦いの場面にもあてはまる。

そもそもペネロペ王妃が20年にわたり求婚者たちをもてなし続けたのは、ゼウスの掟クセニアがあったからである。クセニアとは、一言で言えば「他人や見知らぬ訪問者を、敵味方や身分を問わず手厚くもてなさなければならない」という掟である。そして、これに背いた者は恐ろしいゼウスの神罰を受け、共同体から追放されることになる。

オデュッセイアが、求婚者たちとの戦いに息子テレマコスを参加させなかった理由はまさにそこにある。

求婚者たちは、王妃ペネロペと王子テレマコスの館に滞在していた。彼らの行いがどのように非道なものであったとしても、彼らがペネロペとテレマコスの館にいる以上、ゼウスの掟クセニアが適用される。仮にテレマコスが、オデュッセイアと共に求婚者たちと戦えば、彼は掟を破ったと見なされ、王国を追放されることになっただろう。テレマコスへの譲位を考えていたオデュッセイアにとって、それは何としてでも避けなければならない事態だった。

このように、ノーラン監督は、原作において必ずしも可視化されていなかったゼウスの掟を徹底化させ、「掟と約束」を守る人オデュッセイアの人物像を浮き彫りにする。以上の二つの場面は、このためにどうしても必要なものだった。

旅立ちのエピソード

では、ノーラン監督が加えたもう一つの新たなエピソードとは何か。既に明らかなように、それは最後のオデュッセイアと王妃ペネロペの西の海への旅立ちのエピソードである。

原作は、最後、オデュッセイアが父ラーエルテーストと再会を果たし、アテネの仲介で求婚者の親族たちとも和解することで終わりを告げる。そう、原作はまさに英雄が、冒険と試練の果てに故郷に帰還し、王位に戻ることで世界に平和と秩序が回復される物語だった。

これに対し、ノーラン監督は、オデュッセイアが王位を息子テレマコスに譲り、自身は王妃ペネロペと共に一艘の船で西の海に旅立つエピソードで、この長い物語を終える。世界に平和と秩序は回復されたが、これと引き換えに英雄は王国から追放されなければならなかったのだ。まさにここに、ノーランが映画オデュッセイアに託したメッセージが集約されている。

災厄をもたらす者

これまで見てきたように、オデュッセイアは、狩りの前に弓を鳴らして獲物に知らせるほどに徹底して正義と公正を確保しようとする信義の人だった。だから彼にとって、「トロイの木馬」を使った奸計は、たとえそれが味方に大勝利をもたらしたものであったとしても、決して許されることではなかった。

彼の中では、トロイの木馬による勝利は、敵と味方が知力、体力、精神力、武力を尽くして戦い、最終的にその結果を神に委ねるという公正と正義の掟が破られてしまった偽りのものであり、単なる破壊と虐殺の場でしかなかった。オデュッセイアは、これによって世界の平和と秩序が乱され、災厄がもたらされることを直感した。そして、その災厄が自分自身であることも。

だから彼は、これ以上の災厄を防ぐために、帰還の旅において、可能な限り略奪と虐殺を避けようとする。それはやはり掟と約束に反するものだからだ。しかし、部下たちはこれを守らず、次々と命を失っていく。オデュッセイアにとっても、怪物や巨人に殺された仲間の死体を埋葬しないままに逃走するという選択をする度に、そのことが心に残っただろう。だから彼は、魔女キルケーの導きで冥界に下った際、死者たちと葬送の約束を交わすのである。

オデュッセイアの旅の意味

こうしてオデュッセイアの旅の目的は明確となった。

王妃ペネロペとの約束を守って故郷に帰還すること、そして混乱するイタケ王国に平和と秩序を取り戻すこと、最後に世界に災厄をもたらした根本原因であるオデュッセイア自身を「追放(Exile)」し、西の海で死者たちの葬送儀礼を行うことで世界から災厄を取り除くこと。しかし、このような苦渋の決断に至るまでには、身体と心の傷を癒やして回復し、改めて過去を想起して整理するための忘却の7年が必要だったのである。

ノーランが伝えたかったこと

こうしてノーランのオデュッセイアを巡る新たな物語は終了する。

英雄が英雄である限り災厄をもたらすのであり、世界に真の平和と秩序をもたらすためには、アンチ英雄の役割を引き受けなければならないという考えは、「ダークナイト・トリロジー」以来のノーランの基本哲学である。そして、このアンチ英雄が困難を乗り越えて、その役割を果たすことが出来るのは、愛する者たちとの記憶を失わず、死んだ者たちへの追悼を忘れないことだというのも、ノーランが「インセプション」「インターステラー」「テネット」などを通じて、繰り返し語ってきた主題である。

その意味で、映画「オデュッセイア」はノーランのこれまでの作品の集大成といっても良い作品だろう。そして、言うまでもなく、この作品が、いま制作されたという意味は計り知れない。掟と約束がないがしろにされ、力の論理によって破壊と虐殺が横行する現代社会において、死者を追悼し、親しい者との親密な記憶を頼りに平和と秩序を追求することが何よりも求められているのだ。

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